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文化的消費活動の日記

呉座勇一 『応仁の乱: 戦国時代を生んだ大乱』

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 

奈良の興福寺に所属していたふたりの僧侶、経覚と尋尊の日記を中心的な史料としながら「応仁の乱」とそれに伴う日本中世社会の変化を描いた一冊。歴史関連の書籍では異例のヒット作となっている。

アダム・タカハシさんが激賞しているのをきっかけに手を出してみたのだが、出版社が宣伝文句として使っている「なんで売れているのかわからない」という言葉が腑に落ちてくる本ではある。とくに冒頭から続く応仁の乱がはじまるまでの経緯を説明する部分。(自分が高校時代かなり良い加減に日本史の授業を受けていたことも要因のひとつだと思うのだが)とにかく登場する人物が多いし、政治的な話が淡々と続くようでついていくのに精一杯になる。

しかし、いざ大乱が勃発してみるとどんどん面白さが加速していく。だから、我慢して、最初のつらい部分は「とりあえず、東西にわかれて戦争が始まったんだな」ぐらいの雑な理解のままでもいいから乗り越えて欲しい。

とくに応仁の乱(京都を舞台にした市街戦である)における戦法の変化を説明するあたりからが急に面白くなる。東軍西軍、それぞれが防御を固めて戦ったため、持久戦となり、それを打開するために機動力がある「足軽」という兵力が生まれた、しかもその足軽のヒューマンリソースは、飢饉のおかげで周辺都市から流入した都市の最下層民によって構成されていた、と戦争と社会とが関連づけられながら説明されていくのがとても面白かった。教科書的な政治の話から、急に動きがでてくる部分である。

ともあれ、本書の最大の魅力になっているのは、登場する歴史上の人物の人となりや、彼らがもったであろう思考回路の描き方だと思った。本書は500年以上の前の世界を扱っている。こうした昔の話を読む場合、当然、読み手はそこでの登場人物を「昔の人」と想定する。現代科学を知らず、迷信ぶかく、現代の人々の思考回路とはまったく違った考えをする「別世界の人物」みたいに。

本書で描かれる人々も、もちろん、現代のわれわれとは違う風習や文化を持っている。しかし、損得勘定や経済的合理性をもって行われる意思決定のプロセスは、ほとんど現代のわれわれと同じ、というか、共感できるものとして描かれている。ここが素晴らしいのである。

戦乱の最中、興福寺の人事が大揉めとなり、最終的に75歳の経覚へとトップ就任のオファーがやってくるあたりなどは、ほとんど現代の会社でも起きそうな話のように読める。興福寺の人事権をもっていた幕府を、興福寺の親会社だとするならば、応仁の乱は親会社のなかで大変な派閥闘争がおこなわれており、ビジネスがまともに動いてない事態だとたとえられよう。

子会社である興福寺も親会社のトラブルの煽りを受けて、業績が最低な状態である。そんななかで「これまでもピンチのときに立て直した実績があったから」と75歳で担ぎ出される経覚。大変につらい立場であるのだが、引き受けざるをえない立場に置かれてしまう。こういう人、いるでしょ、どっかに……。

筆者はあとがきのなかで「試行錯誤を重ねながら懸命に生きた人々の姿をありのままに描き、同時代人の視点で応仁の乱を読み解く」ことを試みたと明かしているが、その試みは見事に成功している、と言えるだろう。同時代の視点が、理解可能なものとして提示されるということは、500年以上の前の視点と、われわれの時代の視点が共役可能なもののように結び付けられることに他ならない。

荒俣宏 『アラマタ珍奇館: ヴンダーカマーの快楽』

アラマタ珍奇館―ヴンダーカマーの快楽

アラマタ珍奇館―ヴンダーカマーの快楽

 

荒俣先生の収集対象って本だけじゃなかったのか……と驚愕した本。自身のコレクションから、自動人形やオルゴール、剥製、といったヨーロッパのビザールな物品だけでなく、明治時代の便器、そして「真打」的な稀覯本を紹介しつつ、過去の珍品コレクターのコレクションを「お手本」として見に行ったり、と大変楽しい本である。まぁ、ホントにこの人、なんでも好きなんだな……と半分呆れつつも、リスペクトしたくなる。しかも、この本にはすごいオチがついている。巻末のあとがきで本書で紹介されているコレクションがボヤで消失した、とか、突風で窓ガラスが割れたのと一緒に壊れちゃった、とかすごい告白がされているのである。期せずして、すでに失われてしまったヴンダーカマーを記録した、大変ロマンティックな一冊となっている。

五十嵐太郎(編) 『卒業設計で考えたこと。そしていま』

卒業設計で考えたこと。そしていま (建築文化シナジー)

卒業設計で考えたこと。そしていま (建築文化シナジー)

 

青木淳、阿部仁史、乾久美子、佐藤光彦、塚本由晴西沢立衛藤本壮介藤森照信古谷誠章山本理顕。著名な建築家の卒業設計、そしてそれが現在のスタイルにつながっているのか、あるいはつながっていないのかをめぐる対談集。知らない建築家ばっかりだったのだが(名前を調べると、ああ、あれか、とピンとくるぐらいの人たちではある)、大変面白く読んだ。

対談の最後はつねに「最近の学生の卒業設計ってどうですか」的な質問で締められる。で、多くの建築家が「最近の学生ってこじんまりとまとまっているよね。スマートなんだけど、野心が感じられない」的に答えているところが、まぁ、なんというか……「わかるな」と。最近の若いコ、マイルドだよね、みたいなところは30歳過ぎたわたしも感じるところであって、どの業界も一緒なんだな、とか。

ただ、これ刊行年を考えると、この本のなかで厳しいことを言われている「若者の世代」って完全にわたしの世代のことなのだった。その証左として、巻末に収録された五十嵐太郎と本江正茂との対談に、オブザーヴァーとして参加している学生(当時)が、高校のオーケストラ部で一緒だった先輩、というのがある(知らずにこの本を手にしてたので名前を見て驚いた)。自分たちが言われてたことを、いまの若者に当てはめて「わかるな」とか思ってるの、って完全おっさんじゃねーか、などと反省してしまった。

卒計の内容も発言も藤森照信の章が一番良かった。「処女作にすべてが出ないような人は、ダメなんじゃない?」とか若者をぐったりさせそうな放言が満載。しかし、これも藤森が丹下健三だとか前川國男だとか槇文彦卒計を調査して、卒計からのその後の作品とのつながりとの関連を見出しているところからなされた発言なのだった。だから、一理も二理もある言葉だな、と。

根占献一 『イタリアルネサンスとアジア日本: ヒューマニズム・アリストテレス主義・プラトン主義』

イタリアルネサンスとアジア日本 (ルネサンス叢書)

イタリアルネサンスとアジア日本 (ルネサンス叢書)

 

本書のタイトル通り、イタリアルネサンスと日本との関わり、とくに人文主義アリストテレス主義・プラトン主義といった当時の知の営みがどのように日本と関わりあっていたのかを探る。とくに日本を訪れたイエズス会の宣教師たちが、日本の人々を教化する際、「霊魂は不滅であること」や「神」という概念を理解させるために奮闘する様子を面白く読んだ。異文化との出会いと摩擦で(たとえそれが誤解だったとしても)ストーリーとして魅力的なものが生まれることがある。たとえばザビエルが島津家の家紋に、イエズス会以前にも日本にキリスト教が伝来していた証跡を見出そうとした、という学研『ムー』みたいな話に魅力を覚える。

2017年5月に聴いた新譜

4月に引き続き、5月も忙しくて、もはやなにをしていたのか定かではない。Apple Musicにジャズばかり薦められてたので、ジャズばっかり聴いていた気がする。あとジョニー・キャッシュ聴いて気合をいれてました。

Legend of Johnny Cash

Legend of Johnny Cash

 
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柳澤健 『完本 1976年のアントニオ猪木』

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

 

ミュンヘン五輪でふたつの金メダルを獲得したウィリエム・ルスカ戦。もはや歴史上の人物といっても過言ではないボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリカシアス・クレイ)戦。韓国人プロレスラー、パク・ソンナン戦。そしてパキスタン最強の男、アクラム・ペールワン戦。1976年にアントニオ猪木が闘ったこれらの「極めて異常な4試合」を鍵にしたスポーツジャーナリズム。

昨年、モハメド・アリが亡くなった際にも「世紀の凡戦」として酷評された一戦の再放送がおこなわれたが、当然、本書の中心となっているのも、この一戦である。「『プロレスこそ世界最強』を標榜する猪木の理想と情熱が、このカードを実現させた」というのが、これまで語られてきたプロレスの「正史」であろう。そこを本書は「そもそも、なぜ猪木が、その『プロレスこそ世界最強』を標榜しなくてはならなかったのか」という問いまで立ち帰ろうとする。

その動機が「ライヴァルであったジャイアント馬場との関係性・確執」というところに置かれているのは驚くべき点ではない。力道山のもとでプロレスをはじめた両者のプロレス観は真っ向に対立した。「ショーとしてのプロレス」を体現するジャイアント馬場、「リアルファイトを目指す」アントニオ猪木というふたりのプロレス観の違いは、日本のプロレスの「正史」の枠組みのなかにすっぽりと収まるものだ。

「正史」的にはもともとのフィロソフィーが違うから、ふたりは対立したのが正解だろう。しかし、本書では、リング外におけるいろんな政治的な問題・権力抗争によって、なかば猪木というレスラーがプロレス界で生き抜けなくなったから「猪木のリアル路線」が誕生した、という歴史の逆読みがおこなわれる。ここが本書の目新しい部分、というか。黒い歴史にも立ち入りつつも、複雑な日本のプロレスの黎明期をかなり細かく書くことで、その逆読みのストーリーを読ませるものとしている。

「プロレスはショー」というプロレス・ファン的には「興ざめの一言」な視点で物事を語り、猪木に批判的に迫ろうとしているように見える。しかし「1976年のアントニオ猪木は、あらゆるものを破壊しつつ暴走した。猪木は狂気の中にいたのだ」と言いつつも、その「破壊」がのちの総合格闘技を作るきっかけとなった、という評価に繋げており「破壊から創造へ」という予定調和的なストーリーに収まっている。

のだが、本書の後半「韓国のプロレス史」や「パキスタンのプロレス史」を「これは一体だれを主人公とした本だったのか?」と疑問を投げかけたくなるほど詳述することで(途中でほとんど大木金太郎の本かよ、ってなる部分がある)、「リアル路線」を発明したのちの猪木が破壊したものの重みが伝わってくるのが良かった。

結局のところ、ひたすら「アントニオ猪木マジックリアリズム」を語ろうとした一冊なのだな、と。暴走する猪木の様子はガルシア=マルケスの『族長の秋』を彷彿とさせる。あと「舌出し失神KOは猪木の芝居」という記述が、「えっ、そうなの」と一番驚かされた。

ロベルト・ボラーニョ 『はるかな星』

はるかな星 (ボラーニョ・コレクション)

はるかな星 (ボラーニョ・コレクション)

 

ロベルト・ボラーニョの小説を読むのはこれが3冊目。寺尾隆吉による『ラテンアメリカ文学入門』によれば、早世したこのチリの作家の最高傑作として推されることの多い本だと言うが納得。170ページ弱の中編小説だが「架空の作家」を「ボラーニョの分身的な主人公(と「ボラーニョの分身その2」的な主人公の友人)」が追う、という構造は『野生の探偵たち』とほぼ同じであり、かなりヴォリュームのある『野生の探偵たち』のエッセンスだけを抽出したらこの一冊になるのでは、という感じがする。そして『アメリカ大陸のナチ文学』を読んだときもため息がでたが、本書も「これは俺が描きたかった小説だな……」と思ってしまった。

まず、なにより、ボラーニョの文体が素晴らしくて。乾いていて、皮肉っぽく。ある記述がおこなわれるとすぐに括弧書きでその打ち消しがリズミカルにはいる、常に二重の意識によって文章が織り成されているような(それは本作で追及されるカルロス・ビーダー、乗り込んだ飛行機によってチリの上空に詩を書いた前衛詩人であり、複数の殺人に関わったとされる人物を、主人公とその親友、ビビアーノが追っていることと無関係ではないだろう。主人公の視点と、ビビアーノの視点によってビーダーという人物が同時に観察されている)。どこまでホントで、どこからウソなのかまるでわからない、リアリズムとマジックが共存する世界観に改めて惚れてしまった。

そして、常に寂しい感じ、というか、センチな感じがある。失われてしまったもの、取り戻せないものへの憧憬。その情感が刺さることがあって(そういうサムシングが欲しくなる瞬間ってあると思うんですが)。あくまで個人的な感想として受け止めていただきたいのだが、この作品の刺さり方は村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に似ていた。作品の要素的にも一部重なっている(主人公 ≒ 僕、ビビアーノ ≒ 鼠、カルロス・ビーダー ≒ デレク・ハートフィールド)のだけれど、とくに30代になって読み返したときの『風の歌を聴け』の印象が『はるかな星』の読後感と通じてしまうのだった。嘘まみれなんだけど、これ、純然たる青春小説じゃん、っていう。

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