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文化的消費活動の日記

ジョゼフ・チャプスキ 『収容所のプルースト』

 

収容所のプルースト (境界の文学)

収容所のプルースト (境界の文学)

 

「これは読まなければ……!」と思うような本に出会えることは幸せである。これはインターネットでつながっている友達が話題にしていた。著者のチャプスキは、ポーランド生まれの画家であり批評家。彼が第二次世界大戦中にソ連の捕虜となり、極寒の収容所でおこなったマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に関する講義の記録、というのが本書。今年上半期の「隠れた話題書」、「隠れたヒット作」とも言える本だと思うので、当ブログを読まれているような奇特な方はマストバイ。読もうと思ったときにはすでに品切れになっており「いつ重版がかかるんだ!?」と非常にヤキモキした。「早く手に入れたい……!」本に対して、そんな気持ちになることも昨今では稀だったな……。

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(1987,2012) - キッチンに入るな

これ自身が優れた書評であるが、こちらのブログ記事でまとめられているように、すでに数々の書評がでている。どの書評も、本書が生まれた環境、極限の逆境において芸術が与える希望のようなものに触れている。それは本書を手に取るきっかけを作る一番のパワーの源泉であるのだが、本が生まれたコンテクストを抜きにしても、大変に有用な本だと思った。

とくに『失われた時を求めて』という作品のコンテクストとなる部分、プルーストが生きた時代のフランスの文化的な背景を解説している冒頭部分。こういうのは改めて「有用である」と言っておきたい。とくにフランスでワーグナーが大流行した時代に、プルーストがその文学的素養や世界観を発展させていたという記述。これはわたしに、アルフレッド・コルトーが《神々の黄昏》をフランス初演した、という歴史的事実を思い出させ、コルトー、そしてジャック・ティボーという音楽家が、この作家とほぼ同時代人であったことを気づかせる。


Thibaud/Cortot - Franck: Violin Sonata in A, 1923 (entire)

それはまるでプルーストのテクストにBGMを添えるような注釈となるだろう。音楽と同様に絵画に関する記述は、テクストに色彩を添える。とにかく、まだ『失われた時を求めて』を読んだことのない人にとっては「チャレンジしてみようかな」という刺激を与えられる本であろうし、わたし自身はいつかチャレンジしようと思っていた「再読」に手をつけてみよう、と思っている。

ところで、収容所で生まれた「作品」というくくりではメシアンの《世の終わりのための四重奏曲》を思い起こさせる。「ヨハネの黙示録」に曲想を得たこの楽曲の原題は、直訳すれば「時の終わりのための四重奏曲」となる。ほとんど同時期に、ソ連の収容所とドイツの収容所で「時」にまつわるモニュメントが生まれたのは単なる偶然なのだろうか?


Messiaen: Quatuor pour la fin du temps / Weithaas, Gabetta, Meyer, Chamayou

綿矢りさ 『勝手にふるえてろ』

 

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

 

いまこのエントリーを書きはじめた瞬間、新刊当時、新宿のサザンテラスのほうの紀伊国屋で派手に売り出されていた記憶がなぜか蘇ってきた。昨年、現代日本を代表するスーパー若手女優、松岡茉優様主演で映画化された小説『勝手にふるえてろ』、綿矢りさの原作を読む。映画は未見であるのだが、読書中の脳内イメージは完全に松岡茉優様の御姿で出来上がっていた。

綿矢りさといえば、わたしはかつてこんな風に評したことがある。

人間の描写に強烈なブラックネスが混じっているところが、綿矢りさの小説の好きな部分だった。彼女は、冴えない人間を、悪意さえ感じるほど鋭く、柔らかい表現をつかって描いてしまう。時速200kmぐらいでマシュマロを投げつけて、人を殺す感じの、そうした凶悪さがすごく好きだった。

本作の主人公は、冴えないおたく女性。その冴えなさ、痛さ加減の描写には、作家の天才が遺憾無く発揮された名作といえよう。小説のほとんどが主人公の内的な独白で占められているのだが、それがいちいちおたくっぽい。おたくっぽい自意識の過剰が最高だし(「おたくのくせにテクノが好きな私は」)、「視野見とはイチを見たいけれど見ていることに気づかれないためにあみ出した技で」という最高のフレーズで冒頭から持っていかれてしまう。綿矢りさはマジで天才。

主人公の振る舞い、意識の痛々しさを受け止められるオトナになっていて良かった、と心底安堵する。

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按田優子 『たすかる料理』

たすかる料理

たすかる料理

 

代々木上原にある人気飲食店「按田餃子」の主宰者による著作。わたし個人はこのお店に足を踏み入れたことはないのだが、妻がファンらしく、本書も妻が買っていた本なのだった。

帯には「自炊はわがままでいい。台所にしばられず、自分らしく食べて、生きるには?」とある。通常の「食」に関する本とは一味違った食文化に関する本だと思った。ましてや「グルメ本」では決してない。 実のところ、文章のスタイルがやや苦手とする部類に属する本ではあるのだが、大変興味深く読んだのは、その「台所にしばられない」というスタイルなのだった。

現代の高度文明社会に生きている人間であれば、おおむねそのライフスタイルは「定住スタイル」であろう。なかにはホテル暮らしの人もいるかもしれないが、いかに引越し魔の人であっても、基本的には家を持ち、そこを拠点に暮らしている。そこには使う使わないを問わず、台所があり、自炊するのであれば、その台所を使うことになる。

本書が興味深いのは、台所を使って自炊をする定住スタイルのなかに、原始社会めいたスタイルが移植されているように見えるところ。台所で毎日気合をいれて「料理をする」のではなく、肉や豆をまとめて「加熱」し、味を変えながらずっと食べ続ける、そういうのが自分にはあっている、と著者は言う。

掲載されているレシピは、凝った料理、という感じではない。逆に、粗野、というか簡素である(ただし、雑でも、乱暴なわけでもない)。これにより、定住のなかで機動力が生まれていく。

行き着く先は土井善晴の名著『一汁一菜でよいという提案』と重なるのだが、方法論がまるで違っている。「品数を減らすけれども、一品一品に丁寧に心をこめる」という土井の方法論は、日常に気づきを与えるタイプの本だったけれど、本書は「え、そういうスタイルもあるのか!」という驚きをもたらしてれるよう。なにかライフスタイルが地滑りを起こしそうな怪著なのではないか、とさえ思える。

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逸見龍生・小関武史(編) 『百科全書の時空: 典拠・生成・転位』


百科全書の時空: 典拠・生成・転位

百科全書の時空: 典拠・生成・転位

 

学生時代からゆるく興味を持ち続けている『百科全書』に関する新しい研究書が出たので手に取った。『百科全書』と言えば、18世紀にディドロダランベールらを中心に進められたフランスの百科事典プロジェクトである。浩瀚なこの書物に収められた7万を超える項目がどのような典拠をもとに執筆されたのかを分析したデータベース作成などの国際的な研究チームに参画した研究者たちが、20年以上にもわたって繰り広げられた「知の運動」に取り組んだひとつの成果が本書となる。

「百科事典」という言葉から現代の人は、なんらかの権威的なものを帯びた知のカタマリ的なイメージを抱くかもしれないが、実はそうではない。

『百科全書』は(さまざまな思想の)総合をなすものではなく、むしろ循環をなすものである。したがって『百科全書』の体系なるものを探しても無駄である。

そして、

『百科全書』とは、知の静的な総合ないし総体ではない。真理へ向かおうとする個々人の思考の運動を生み出すテクストの集積=装置である。

以上のとてもカッコ良いフレーズを引用しておこう。先日、千葉雅也の本を読み終えたばかりのわたしにとってこれらのフレーズは「動きすぎてはいけない!」という言葉を思い起こさせるばかりであるのだが、実のところ、この書物に掲載された項目のなかには、ほとんど他の時点から剽窃したような文章も収められている(そもそも『百科全書』自体が、先行するイギリス発の『チェンバース百科事典』の翻訳プロジェクトから始まっているのだが)。

まだ著作権だとか出典の明記などのルールがしっかりしていなかった大らかな時代だったとはいえ、現代の百科事典とはどうやら違った雰囲気の書物らしい。また、ある項目では典拠となった情報からはちょっと違った情報が足されたり、引かれたりして掲載されている。ただ単にほかの本からパクってくるだけでなく、改変までされているらしい。本書の研究者たちは、典拠からの『百科全書』に現れたときの距離に注目をしている。オリジナルからどう変えられているのか。ここに当時の知のあり方や執筆者の思想が現れてくる、というのだ。

引用の後者は「『百科全書』項目の構造および転居研究の概要」の冒頭に据えられた文章。この論文は「『百科全書』がどのように書かれているのか」を原文にあたっていない読者でもさっくりとつかむことができるので「はじめに」のあとに読んでおくと良いと思う。

収録論文の内容で最も心惹かれたのは「中国伝統医学とモンペリエ生気論」。現代ではレイヤーが異なるところで共存している東洋医学と西洋医学が、18世紀に交錯し、共鳴していた瞬間をうかがい知れるところが刺激的だった。

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2018年3月に聴いた新譜

 

No.0 (通常盤)

No.0 (通常盤)

 

今月は久しぶりにCDを買った。BUCK-TICKの新譜。ここ数年、CDのメディアで買っているのはBUCK-TICKだけなんじゃないか。後から知ったのだけれど、本作はiTunesでも提供があって、ヴァイナル以外で実体的なメディアを持ちたくない俺としては 「配信あるなら教えてよ」と思った。しかしながら「BUCK-TICKは最新作が最高傑作」、このテーゼを本作も貫いている。なにより、音の良さがこのアルバムはすごい。

ONE PEOPLE ONE WORLD

ONE PEOPLE ONE WORLD

 
BLACK TIMES (IMPORT)

BLACK TIMES (IMPORT)

 

フェミ・クティとセウン・クティのアルバムが同時に出たのはどういうことなのか。商売的にはエジプト80を継いだセウン・クティのほうがフェラ・クティの正統的後継者ということになっているのかもしれないが、フェミ・クティのが良かったね……。 フェミ・クティの顔はジルベルト・ジルにめちゃくちゃ似てる、と思った。

Juice(初回限定盤)

Juice(初回限定盤)

 

詳しくは存じ上げませんがジャパニーズR&B、iriのアルバム。これは「Dramatic Love」という曲1曲にがっつりやられた感じで「なに、この冨田ラボ的な編曲は!?」と驚愕していたらWONKという堀込泰行と一緒にやっているバンドが曲を提供していた、という。循環を感じさせられる。カッコ良いですね。

EVERYTHING IS RECORDED BY RICHARD RUSSELL [帯解説・歌詞対訳 / ボーナストラック3曲収録 / 国内盤] (XL883CDJP)

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Cumplicidade

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AMERICAN UTOPIA

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Canta Noel

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AFTER BACH

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THERE'S A RIOT GOING O

THERE'S A RIOT GOING O

 
Sex & Cigarettes

Sex & Cigarettes

 
Amor E Musica

Amor E Musica

 
Byrd: Motets

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In Seculum Viellatoris: the Me

In Seculum Viellatoris: the Me

 
Digital Booklet: Beau Soir - Violin Works by Fauré, Franck & Debussy

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I Guess That Makes Me a Loser

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Beethoven: Missa solemnis, Op. 123

Beethoven: Missa solemnis, Op. 123

 
MUSIC IS

MUSIC IS

 

 あとはこんな感じです。チョン・キョンファの録音なんか、あ、この人は大きな音楽をする人だな、と思えて良かった。ビル・フリゼールの新譜も良かったな……。

五十嵐太郎 + リノベーション・スタディーズ(編) 『リノベーション・スタディーズ: 第三の方法』

 

リノベーション・スタディーズ―第三の方法 (10+1 Series)

リノベーション・スタディーズ―第三の方法 (10+1 Series)

 

建築史家、五十嵐太郎が編者のひとりになって作った「リノベーション(リノベ)」に関する本。毎回、建築家や美術家をゲストに呼んだレクチャーがもとになっている。

「リノベ」という言葉もすっかり人口に膾炙した感があり、かくいう私も築30年以上経過した集合住宅をスケルトン・リノベして住んでいる人であるのだが(リノベ、という言葉がなんとなく恥ずかしくて、自分で説明するときは「リフォーム」と言っているが)、本書によれば、リノベーションは90年代の後半から注目を浴びていた、らしい。個人的な感覚では「リノベ = ここ数年の流行り」と思っていたので、意外だった。

刊行から15年経っても「リノベ」って良い感じにホットなキーワードなわけだから、つまり、ここ20年ぐらいリノベは注目され続けている、ということになる。その理由は、消費者が「注文住宅を買う余裕はないけれど、リノベなら予算内で好きな家を作れる」という、ある種のデフレ的節約思考だけに基づくものではない。

「首都圏では新築マンションがバカスカ建てられている一方で、中古マンションが余ってる」だとか「空き家問題」だとか「空きビル問題」だとか、住宅のみならず、日本の不動産業界で「ストックをどうするんだ」という問題を抱えている。このストックが社会問題化しているんだから、リノベーションによってストックをいかに活用するかに注目が集まるのも必然というわけである。状況の深刻化によって、この本の「読みどき」感も完熟に達した、とさえ言えよう。大変面白かった。

なかでも中谷礼仁(あ、この人、タモリ倶楽部に出ている人じゃないか!)が講師となった回は興味深く読んだ。リノベーションの事例に携わるプロセスにおいて、歴史的な建築技法・概念を掘り起こす、考古学的なアプローチがここでは語られている。その歴史・アーカイヴにどのように関与していくか、という話で、中谷はこのように語る。長くなるが引用する。

まず1、3、5、7、これを積層する歴史の状態とします。そこに、突然23というわけのわからない数が入ってきた。これが近代といえば近代で、1、3、5、7と続いてきたものが23と突然変わってしまうわけですが、これをどのようにしたら調和させられるかという問題です。この場合1、3、5、7、23の後に僕が25を書けばいい。そうすると突然27、29が想像的に増やされるわけですね。ならばとこれは初めから1、3、5、7の次は23に飛んでまた四つの奇数で数えてまたその次はさらに幾つ足してというような数列になっていたのだというかたちで過去のルールすらも捏造される。

 「これを考えれば、いかなるノイズがきても必ず自分たちの新しい創作活動が歴史的なものまでを含めた調和的な条件を獲得できるという確信にもなる」。この歴史に対する考え方に、すごいビリビリと刺激を受けた。

トーマス・ピンク 『哲学がわかる 自由意志』

 

哲学がわかる 自由意志 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 自由意志 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

 

オックスフォード大学出版の良シリーズ「A Very Short Introduction」から哲学関連のタイトルがセレクトされた翻訳が出ている。原書のこのシリーズは、とてもコンパクトなのに内容が濃くて「なにか勉強してみたいことが見つけたけれど、日本語で良さげなものが見つからない」っていうときに重宝していたから、こういう企画はありがたい。今回読んだ『自由意志』のほかには『形而上学』、『因果性』というタイトルが選ばれている。こちらもいずれはチェックしてみるつもり。

……だったのだが、この『自由意志』、翻訳がなかなかアレなので、ちょっと他のに手を出すのが怖くなってくる。翻訳、というか、まるで機械翻訳のごとき逐語的な日本語への「変換」であって、読みにくくてしょうがない。「お前は日本語でもこんな無駄な言葉が多い文章を書くのか!?」と翻訳者と編集者を問い詰めたくなり、読んでいてほとほとうんざりした。翻訳の質が哲学をわからなくしているし、本の魅力を損なっているのではないか。無駄な表現をザクザク切ったら、2/3のヴォリュームにできるんじゃないか? 

内容は、通史的に書かれてはいるけれど、分量が分量なので混みいった話はほとんどなし。古代から中世、近代、そして現代における「自由意志」をめぐるトピックをまとめている。ほとんど固有名もあがってこないのだが、近代における自由の概念の転回点にホッブスの名前があがってくるのが印象的なぐらい。だからこそ、なおさら、サラリと読める日本語にしといてよ、と思ってしまう。

そもそもなぜ「自由意志」が哲学上の問題になるのか、ってところがやはりポイントであって、本書では「意志を認めないと人が悪いことしても裁けないよね、責任を問えないよね」というのが神学上の問題なったからなんだよね、と説明されている。意志と責任がセット、と言えば、昨年の『中動態の世界』が思い出される。國分功一郎の本と一緒に読むと面白いんじゃないか、とも思うが、繰り返しになるけれど、ホントに日本語が残念。

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