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文化的消費活動の日記

村上春樹 『騎士団長殺し』

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

村上春樹の新作を読了。刊行前にタイトルだけ公開されたときに「ふむ、ドン・ジョヴァンニか。セックスしまくりの男が主人公の、またぞろいけ好かないオシャレ小説でも書いたのか?」と想像したが、これまでの村上春樹作品の総決算的、というか「全部のせ」みたいな本だった。主人公は、いつものように一般会社員じゃなくて、なにか特殊能力をもって飯を食っているキャラクター(36歳。画家)。それが、いきなり妻から離婚を切り出され、井戸みたいなものだとか、年上のガールフレンドだとか、リトルピープルみたいなものだとか、ふかえりみたいな人物だとか、緑や天吾のお父さんみたいなものだとか、やみくろみたいなものだとか、地下の冒険みたいなものに出会い「なんかこれ読んだことあるゾ!」の連続になっている。

要するに「いつもと一緒」であるので、そんなに急いで読まなくても良い本だと思ってしまったのだが、いくつか新しい試みも行われている。まずは語り手(主人公)がストーリーを物語る立ち位置。およそ9ヶ月間のできごとを主人公が振り返る、という構造を本作はとっている。本の始まりの地点で、主人公は、この本の結末で明らかにされることを知っているのだ。なので、たとえば出来事Aが起こったあとに「これが後々、大変な出来事Bをおこすことになるとは……」的な書き方が可能となっている。こういう書き方、少なくともこれまでの長編作品ではなされていなかったように記憶している。

それから「不気味な雰囲気」を書くのが上手になっているよね、という印象も受けた。思い出すのは短編集『女のいない男たち』に収録されている「木野」という作品で、これは近年の村上春樹作品のなかでも一番に面白かった短編だったのだが、そこで試されていた「不思議」から「不気味」へのモードチェンジが、本作のなかでも試されているように感じる。

ただ「行って帰ってくる」という物語の基本は、これまでの長編のなかでももっとも強く感じられるところ。『オデュッセイア』みたいな放浪(冒険)を作中で主人公は2度経験することになるのだが、1度目の放浪がオペラで言うところの序曲みたいな役割を果たしていて、ここだけ読んでも「なるほど、これ行って帰ってくる話ね」という予測がつく。そして、そこでは村上春樹的な予定調和が繰り広げられるのだろう、という予測が生まれる。

そして、今回、この予定調和が作者の自己欺瞞的なもとして読めてしまった。物語はおおむね「ハッピーエンド」といってさしつかえない終わり方になっている。そこに到着するまでにスーパーナチュラルなできごとがいくつもおこる。尋常ならざるもの、にわかに信じがたいことを「世のなかには説明できないことがおきる」という態度によって、主人公はあまりに簡単に受け入れすぎなんじゃないのか、と。これまでの作品はもうちょっと理解しがたいできごとを理解しようとしていた気がする。あともうちょっと主人公は痛い目にあっても良いんじゃないか、と。

最後の「まとめ」もいかにも性急な感じがし、正直な感想を申し上げると「もうこういうのは最後にしてくれ!(それよりも『1Q84』はいつなのか! 第4部書くはずじゃないのか!)」と思った。これが最後のつもりで「全部のせ」だったのなら、良いんだけど……。