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文化的消費活動の日記

東浩紀 『ゲンロン0: 観光客の哲学』

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

これまでの著者の本は、『郵便論的、存在論的』は学生時代に卒業論文を書きなが読み、良い本だなぁ、機会あればまた読み直したいな、と思い続けているし、『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』は(これまた学生時代の話だが)21世紀初頭に盛り上がった(盛り上がっていたよね?)ポストモダン論の最後の輝き的なものとして、もはや懐かしい本である。振り返ったら結構チェックしている。のだが、2011年3月以降はなんだかよくわからなくなってしまっていて、Twitterでよく炎上している人、もはや興味なし、って感じであったのだ。

で、ここにきて再び、その著作を紐解こうと思ったのは、これまたTwitterでの炎上がわたしのタイムラインに流入してきたことがきっかけで(わたしのTwitterは、なんかめんどくさいインフルエンサー的アカウントを積極的にミュートしているので、そもそもTwitter論壇的なものに触れるきっかけってないのだけれど)。著者が「今の政治かなにかの話で対立する党派のどっちも嫌だよ! どっちも最悪! 選びたくない!!」みたいなことを投稿していて、それに対してアイドルかなんかが「仮にも文章で飯食ってるオトナが、そんなこと言ってるのはダセエ。ガキかよ。オトナならちゃんと世の中にコミットしろよ」みたいに批判していたのを目にしたのだった。

その前に著者はこの本を「A派なのか、B派なのかという政治主張に対してどっちか選ぶことに戸惑ってる人・居心地の悪さを感じている人」向けの本と紹介していた、と思う。これも(ファッション雑誌のクリシェを使うと)「今の気分」だった。そうそう、原発推進なのか反原発なのか。リフレなのか緊縮なのか、改憲なのか護憲なのか、親韓なのか嫌韓なのか、どっちか選ばなくちゃいけないんじゃないか、という空気感ってあるし、主義Aの人が対立する主義Bの人を明確に敵扱い、かつ、バカ呼ばわりしているのを目にする。

これに対して、わたしやわたしの友人の数人は、どっちでもないし、選べない。だから選ばない、っていうスタンスにいる。そういうスタンスを時たま表明すると「選挙にはいくべきだよ」とお説教されたりして、著者が指摘する居心地の悪さには共感するものがあった。なんらかの主義をお持ちの方にとっては、選ばない人たちも敵扱い、みたいな感じもなんか嫌だ。

で、先に紹介した「選ばないのはガキ、オトナならコミットメントしろよ」という批判。まさにコレは本書で批判的に扱われている近代的な政治論・社会論のひとつのかたちであって、著者からすると「そうそう、お前みたいなのを俺はこの本で批判しているんだよ」というところだったんだろう、と思う。人間は社会にコミットすることではじめて大人になる的な政治観・社会観。これに対して、著者は、そういうのはもう限界なんじゃないのか、もっとユルい感じ、観光客みたいにコミットしないし、なんの責任もない、けれどつながる、みたいな社会の形ってないのか、と模索している。

これね、やっぱりグッときましたね。おお、東浩紀、すげーな、タダモノじゃねーな、って阿呆のような感想しか出てこない。けれども、今の世の中、居心地悪いな、って感じる同世代の人には、わたしと同じように「アクチュアルな本だな」って思うんじゃないか。書き方がまた上手で。サブカルチャーや情報技術の術語を使いながら、腹に落ちるように、やさしく書かれている。