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文化的消費活動の日記

千葉雅也 『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

 

千葉雅也の『勉強の哲学』は昨年読んだ本のなかでもトップクラスに面白かった「思想書」であった。本書は千葉の博士論文をもとにしたドゥルーズ論の本。正直「勉強」が足らないせいで、うまく消化しきれてないし、途中で結局これはなんの本なのかわからないままに読み進めることになったのだが、それでも大変に面白い本であった。

ドゥルーズの著作は、わたしが社会人になった頃ぐらいから文庫化されはじまった。いまや有名な本の多くが文庫で読めてしまうのだから、隔世の感がある。けれども、ドゥルーズってわたしにとってはその文庫化されはじまったぐらいのときに「どれ、ひとつ読んでみるべか」と思って手をつけて、思いっきり跳ね返された思い出しかない。過去のブログを調べたら、記憶通り、2007年に『意味の論理学』を読んでいたらしい。10年以上の時を経て『動きすぎてはいけない』で「へぇ、ドゥルーズはそういう思想家だったんだ」って学ぶことができた。

本書のポイントのひとつにドゥルーズの思想への批判に対する回答がある。たとえば、有名なリゾームの概念。中心を持たずにあれこれ繋がっていくネットワークのような関係性をドゥルーズは思考のモデルのひとつにつかった。これは「結局全部繋がっちゃうんでしょ、それって全体主義じゃないの? ファシズムなんじゃないの?」という風にも批判されたのだという。こうした批判に対して、本書は、いや、そうじゃないんだ。たしかに「繋がりすぎてしまう」と全体主義なんだけれども、ドゥルーズはそこまで言っていないんだ、と言う。

そう、「動きすぎてはいけない」のである。動け、でも、動きすぎるな。中途半端な状態にあることがドゥルーズの哲学の最重要ポイントなんだよ、と本書はドゥルーズを読み解こうとする。これが面白かったですね。端的にいま「中途半端が大事」みたいに抜き出しても、なんのことかよくわかんないだろうけれど、すごく今っぽい哲学だなぁ、と感心させられたのだった。

つながる、つながらない、のどちらかではなく、つながりすぎない、という状態。まったくつながらずに引きこもるわけでも、つながりすぎちゃって全体主義になるわけでもない。一か全か、じゃなくて、その間なんだ、と。その表現の回りくどさ、というか、わかりにくさ、というかは、物事が確定されずに揺れ動く様子、揺れ動き続ける様子を表現するためにあったんじゃないか、とも思うし、わたしが学生時代にハマッていたアドルノがいう「浮動的なもの」を表現するひとつの形にも思える。あるいは、アダム・タカハシが読み解くアウグスティヌスの時間概念も想起させられた。

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