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スティーヴン・エリック・ブロナー 『フランクフルト学派と批判理論: 〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』

 

フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平

フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平

 

アメリカの批判理論研究者によるフランクフルト学派と批判理論の概説書。邦訳のタイトルは概説書感・入門書感が薄いのだが、原書はオクスフォードの Very Short Introduction シリーズの一冊。このシリーズの本についてはこのブログでも何度か取り上げていて本当に良い本が多いのだけれども、これも素晴らしかった。

ややこしいなにが書かれているのかわからないでお馴染みのフランクフルト学派界隈をコンパクトに紹介し、かつ、批判も加えたうえで、「批判理論はもはや意味ないのか?」という問いに対して「むしろ、こういう方向なら批判理論の立ち位置は有効である」という現代的な読み直しまで示唆する。その方向性は、千葉雅也や東浩紀らが提示する現代的な哲学のあり方と共鳴しているように見える。

超絶ザックリ言ってしまえば、批判理論の人たちのやり口というのは概ね「全体主義とかファシズムとか嫌だよ」であって、全体ではなく個を重視する人たち、というか、たとえば会社でも経済でも良いんだけど、社会のシステムのなかで個人がその意思を剥奪されているような状態を問題視する。画一化とかダメだ、とか。

ホルクハイマーやアドルノによる文化産業批判もこの延長である。本来芸術というのは個人から生まれてきて、なにがしかのインパクトを与えるもの、鑑賞者の気持ちが強く揺れ動いてミメーシスが起きるようなサムシングを与えるものであったはず。なのに、文化産業(ここで批判されるのは、映画とかポピュラー音楽とか)は見た目や雰囲気だけ芸術の真似をして、鑑賞者を気持ちよくさせるだけ、触れれば触れるほどバカになっちゃうよ、と警鐘を鳴らしているわけ。

この文化産業批判の的外れ感というか、時代遅れ感ってハンパないっすよね、とは本書でも痛烈に批判されているとおり(だって、ボブ・ディランノーベル文学賞が贈られる時代ですよ)。このほかにも鋭い批判はいくつも本書には含まれていて、名著と名高い(?)『啓蒙の弁証法』も「捨てて良い本じゃないけど、歴史分析とか全然やってないよね。正直雰囲気で物事を言ってるよね」ぐらいに評価している。

この方向だと批判理論は、難しい物言いで「嫌だ嫌だ」って言ってるだけの人たち、ということになってしまう。「システムとかダメだ!」とか言ってもシステムなしには世の中がありえないし、アドルノみたいに語りえないもの、というかなにかを別な言葉で表現したときにそのなにかから言葉への移行によってこぼれ落ちてしまうものにこだわり続けても仕方ないじゃん、と。

だから、批判理論の「個」へのこだわり、というかまなざしは「見えているがいまだ承認されていないもの、痛々しくはあるが治療可能なもの、抑圧されてはいるが力になる(エンパワリング)ものを突きとめるほうがよい」と著者は言う。これによって「リアルな衝突のうちに互いに共通する領域を見つけ出し、そこを基点にしてグローバルにコスモポリタンに変容された啓蒙の規範に粘り強く繋げていく」のだ、と。

「自由に浮動する知識人」が全体性を遠くから眺めて「嫌だ嫌だ」と言ってるだけじゃなくて、自分とは違う立場との交渉や共通点を見つけ出すためにその視線を役立てていこうじゃないか。ここに議論がたどり着くまでの鮮やかな流れ。これがスゴい。ぶっちゃけコンパクトにまとまりすぎて、ひょっとして初学者はついていけない部分があるかもしれない、とも思ったりするのだが良い本。いろいろ読んだ上で思考を整理するのに良いのかもしれない。初学者向けには細見和之の『フランクフルト学派』のほうが適切か。

フランクフルト学派の本は、つい先日「もう二度と読み返さねーだろ」と思ってハーバーマスベンヤミンを残して全部処分してしまったのだが、こういう本に触れるとわずかながらに残った未練もキレイに成仏しそうな気がする。

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