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文化的消費活動の日記

川上未映子 『夏物語』

 

夏物語

夏物語

 

現代の日本文学をまじめにフォローしていない分際で、こういったことを言うのもどうか、と思うが、あくまで自分の観測範囲内のなかで申しあげると、今日日、本書のように正面をきってひとつのテーマ、また「こどもを作ること/生むこと」という大きなテーマ、についてそれを「是か非か」というストロングスタイルで問答するように進む物語、というのは大変に珍しいのではないか。その議論はこの上なくエモく展開され、見事に終結する。

おそらくは人間が生まれる瞬間に立ち上がった人間であれば、あるいは、子供を産まなかった/産めなかった人間であっても、個人的な記憶を共起されながら読みすすめることになるのだろう。見事な物語でありながら、どこかいびつな、雑な印象が残るのは、そうして読者の記憶を呼び覚ます、劇中人物たちの「断片的なもの」(社会学者の岸政彦が記録するような語り)を経由して、議論が進行するから、なのかもしれない。

分析できない断片。「この記述は物語上、必要だったのか?」と思われるかもしれないエピソード。個人的にはとくに紺野さんという人物の語り*1は、そのように響く。「子供がいない人間にはわからないよ」的な、ある種、紋切り型とも言える「(相手を傷つけつつおこなわれる)他者からの理解の拒絶」を提示する人物、ではあるのだが、その人物にも単なる物語上の道具ではなく、痛みをともなった生を感じた。

「これ、必要だったのか?」でいえば、第1部の存在も大きい。ここでは芥川賞受賞作の『乳と卵』を頭からまるごと書き直され、語り直されている。いきなり第2部からで良いんじゃないか、と途中で思わされたのだが、この語り直しが効果的に思えた。本書の読解において必ずしも『乳と卵』を読むことが必要とは思わないが、なにがオミットされて、なにが書き足されているのかを確認することは、小説家の意図を確認するうえで重要な作業になるだろう。単に「『乳と卵』2.0」的なリライト、作家の技量があがって解像度が劇的にあがった状態でおこなわれたリマスター版、ではなく、『オデュッセイア』的な「行って帰ってくる」性をより強く印象づけられる書き直し、より深く、よりエモく帰っていく。

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*1:奇しくもこのブログの書き手と同じ名字を持ち、同じ路線を使っている