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文化的消費活動の日記

高橋ユキ 『つけびの村: 噂が5人を殺したのか?』

 

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

 

今年、SNSで話題になったnote発のノンフィクションの書籍化。山口県の(いわゆる)限界集落で起こった連続放火事件についてのルポタージュ。

これは一種のアンチ・ノンフィクション、ともいえるのではないか、と読みながら感じていた。著者はあとがきのなかで「ノンフィクションが売れない現状」について触れながら、ぼやきにも近い思いを吐露している。

いま、普通の”事件ノンフィクション”には、一種の定型が出来上がってしまったように感じている。犯人の生い立ちにはじまり、事件を起こすに至った経緯、周辺人物や、被害者遺族、そして犯人への取材を経て、著者が自分なりに、犯人の置かれた状況や事件の動機を結論づける。そのうえで、事件が内包している社会問題を提示する。(中略)いつの頃からか、出版業界は、このスタイルにはまっていない事件ノンフィクションの書籍化には難色を示すようになってしまった。

わたし自身、ノンフィクション*1にそれほど親しみがあるわけではないから、この現状に加担するもののひとりである、という自覚はある、一方で、そうした現代のノンフィクションの典型例についても思い当たるものがあった。いわば、そのスタイルは、(あえて覚えたての思想の言葉を使って説明するならば)無数/無限に意味づけできる現実を有意味的に切断すること、と位置づけることができよう。そして、このスタイルを、著者はとらない。というかそのスタイルをさまざまな理由から断念している。だが、その断念から生まれたものこそが本書の一番の魅力であり、読みどころなのだろう。

一言で言えば「この村、なんなのか?」という意味づけしがたい「不気味さ」への直面である。事件の異様さもさることながら、『魔女の宅急便』のキキのイラストが屋根に書かれた家屋*2、事件の前に起きた暴力事件をあっけらかんと語るその口調、被害者遺族が亡くなった途端にガラリと変わる村人の評価……。著者が目の当たりにした困惑や恐怖を読者は追体験する。社会問題のような切り口に還元しきれない、というか、そうした切り口からズレた現実の気持ちの悪さ/居心地の悪さは「もしもシャマランが一人称視点のホラー映画を撮ったなら」というイメージを抱かせる。

現実の時間の流れは「被告人保見光成の死刑判決が確定する」という事実に収斂されていくのだが、著者の切り口はより拡散していくようである。そこでは「責任能力の認定の恣意性」や「被害者のケア」といった制度や現状の問題点の指摘もおこなわれているのだが、追加取材の結果より詳述される金峰神社の歴史や祭りについての記述が諸星大二郎の『妖怪ハンター』を想起させ、味わい深いものがあった。この一連の記述は、いずれ消滅するであろう村の末期の様子を描いたものとして『百年の孤独』の終盤にもつながっていく……。

書籍化前にもnoteで課金して全篇を読んでいたのだが、書籍化にあたっては追加取材がおこなわれ、ヴォリュームは倍ぐらいになっている、のでnote版を購入した人でも買う意義は充分、というか、note版を買ってこのテクストの不気味さにハマった人こそ、書籍を買うべき、と言えるだろう。

*1:というジャンル自体の定義についても再度確認するなら、おそらくは、社会問題・事件に取材したジャーナリスティックなテクスト、ということになるだろう。歴史書の類はおそらくはそこには含まれない、ハズである。

*2:この建物の様子はGoogleストリートビューでも確認できる。というか村の様子はほぼストリートビューで見れるようになっているので、本書を読みながら確認していくことをオススメしたい。犯人と結論づけられている保見光成の自宅も見れる。