sekibang 3.0

文化的消費活動の日記

『WIRED』Vol. 32 「DIGITAL WELL-BEING」

 

以前からお慕いしている方のブログに「ウェルビーイング」という言葉がでてきたのでフォローしてみる気分に。手はじめに『WIRED』のバックナンバーから。特集序盤から『サピエンス全史』、『ホモ・デウス』のベストセラーで知られるユヴァル・ノア・ハラリの対談などが読みごたえある。

そこでは18世紀の哲学を基盤にして構築された人間観や社会制度は現代のテクノロジーに対して時代遅れになっており、アップデートする必要があるのだ……という大きな提言がなされている。提言の大きさに対して「テック企業は倫理的であるべきだ」みたいな「廊下は走っちゃいけません」レベルの話しかできていない気もして、それは18世紀的な倫理観とは言えないのか、とか思うのだが、脳科学などの成果によって身体や脳や思考といったレヴェルで、人のなかで起きていることを把握し、何をするか予測できるようになり、人間が「ハック可能な動物」となっている、という表現は面白い、と思った。

ハックされる領域は、中動態的なエリアだと言えるだろう。アルゴリズムによってレコメンドされるものを素直に受け取ってしまう行動性は、自分の意識の全面/前面にでている意志の領域ではない部分まで読み取られ、ハックされている、ということだ。精神分析ではないやり方で無意識に対して/現実界に対して処理がおこなわれていく感じとも言いかえられるかもしれない。

ハックされることが即ち悪ではない、とはいえ、個人的には「めちゃくちゃにハックされすぎてしまうことが、どうして悪だと言えるのか?」と疑問に思わなくもない。ハックされすぎてしまった人間が逸脱する規範は、18世紀的な人間観に過ぎないのでは、ということで。もちろん、わたしとしては「ハックに抗っていく道」をいきたいとは思うのであるが……。

松下幸之助 『指導者の条件』

 

指導者の条件

指導者の条件

 

オフィスに転がっていたので借りて読んでみた。日本や中国の歴史故事からリーダーシップに役立ちそうな話としてまとめている本。1975年刊行。もはやクラシックか。クラシックすぎてどっかで読んだことがある話ばかりなのだが、これが源流だったのかもしれない。

ブレイディみかこ 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 

今年の話題書。大名著『いまモリッシーを聴くということ』の著者によるエッセイ集。イギリス在住で著者の息子を通して見えてくるイギリス社会の様相を伝えている。小学校は品の良いカトリック学校、中学校では地元の元底辺校、というギャップ(しかも中等教育、という要するに多感で難しい年頃の話)がひとつひとつドラマを作っていくのだが、本書が(おそらくは親世代の)感心を呼んだのは、それが「イギリスのはなし」ではなく「我々のはなし」として読み替えて受け取ることが可能な、というよりも、そのように受け取るべき本だからだろう。

このような外国の教育制度にフィーチャーした本が「外国では〜」と出羽守(でわのかみ)を召喚しがちのようにも思うのだが(本書で何度も言及されるシティズンシップ教育、市民としてのあるべき倫理観に関する教育、のようなものは、おそらく最も出羽守を誘発する剤である)、それはそれとして、経済格差や人種差別といった問題の我々の世界との近さについて考えていくべきだろう。

本書ではハッキリ、スッキリと良い感じに物事や問題が整理され、解決されていくような展開はない。子供も親も悩みながら生活を続けていく。そこには偏らないこと、極端な選択を避け続けることで得られる「正しさ」と、そうであるがゆえに発生する「息苦しさ」のようなものが共存している。

無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません。(P.64)

著者の息子が通う元底辺校の校長が語る言葉は、その状況を暗示するかのようだ。しかし、このなにか一つを選ばないことによって正しさを保てる社会、というものは、ギリギリの豊かさ/余裕のようなものによってこそ担保されえるものでもあろう。選んでしまったほうが、偏ってしまったほうが、収まるし、楽になれるのではないか。徹底的な貧しさはそのような誘惑を呼び起こすようにも思う。まさにこうした主題は『観光客の哲学』的なものであって「2020年以降、ルソーがくる」という私的な予言へとつながっていく。

関連書籍の感想

sekibang.hatenadiary.com

sekibang.hatenadiary.com

sekibang.hatenadiary.com

 

福尾匠 『眼がスクリーンになるとき: ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』

 

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

  • 作者:福尾匠
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2018/07/26
  • メディア: 単行本
 

ドゥルーズの『シネマ』は読んだことないけど思い出深い本である。学生の頃一番仲が良かった友達はシネフィル系の人だったのだが、彼は『シネマ』を原書、英訳でもっていて、『シネマ2』の翻訳が『シネマ1』よりも先に出た、という話をした。なぜ、そんなことをしっかり覚えているのか、といえば『シネマ2』の翻訳者のひとりである宇野邦一の講義を、その友達と一緒に受けていた、とかそういう要素も絡んでいるのだろう。社会人になってから『シネマ1』の邦訳も出揃い、思い出もあって「いつか読みたい本」みたいな気持ちはずっと続いている。が、例によって読めてないし、買ってもいない。

で、昨年出ていたこの本。副題は「ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」。近年、自分のなかでフランス現代思想への関心が高まりつつある流れで手を出してみたのだが、むずかしくて挫折した。ゼロから読めませんでした。丁寧に書かれているのだと思うのだが、いまの自分にはこれを丹念に噛み砕いて読み通す体力と時間がなかった。

『シネマ』はどういう本なのか。このタイトルからは「哲学によって映画を語る解釈の提示」的なものが想像されうるだろうが、全然そういう本じゃなくて、ドゥルーズは哲学を練り上げるための媒体として映画を用いている、と著者は位置づける。そうなのか、とイチイチ勉強になるのだが……正直本書で『シネマ』が遠ざかってしまった感じはある。

ドゥルーズ読解のために丁寧にベルクソンを紐解く箇所なども勉強になり「ベルクソンって認識論、脳科学とか神経科学とかが分かり始めた頃の認識論って感じなんだなぁ」とか感心したりもする。

イメージの宇宙を光の拡散に読み替え、その光を受け取るスクリーンがあってはじめて特定の像が結ばれるということを、生物の知覚の発生に結びつけている。(P.142)

ベルクソンに関するこういう記述は、まるでアヴィセンナのようだな、と思ったり。存在論とか認識論とかまるで自分には関心がないことも確認したりして。

蓮實重彦 『凡庸さについてお話させていただきます』

 

凡庸さについてお話させていただきます

凡庸さについてお話させていただきます

 

著者による30年以上前の社会時評や講演についてまとめた本。蓮實重彦にも社会についてあの口調で饒舌に語るモードがあったとは、と熱心なフォロワーでもなんでもなかった自分などは驚いてしまうし、たしかに古い本だが内容は熟成されていま「読みごろ」になっている。『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』にも通ずる「まだまだ果実味が残ってる」感じ。過去と現代と比較して楽しめるものもあれば、そのまま現代に通ずる指摘もあり、なかでも「情報化社会ではなぜ食事から快楽が失われたのだろうか」という一品は、その最もたるモノ。

ここで筆者は情報化社会によって、逸脱する楽しみが抑圧されている、と指摘する。「情報化社会とやらの退屈さは啓蒙が教育を抑圧し、快楽を忘れさせてしまうことに存する」(P. 105)。パリのレストランアメリカ人の同伴者がコーヒーを飲みながらビーフステーキを「楽しむ」がごとき享楽が、フランス的な流儀からありえないものとして否定され抑圧される。この傾向は現代においてより加速し、人々を自閉症へと誘うようだ。

千葉雅也 『デッドライン』

 

デッドライン

デッドライン

  • 作者:千葉 雅也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

「新潮」に掲載されたことから周囲でも「面白い!」と話題であったのだが、結局読み逃していた作品。読み逃しているあいだに野間文芸新人賞受賞。いや、すごい。これが小説第一作とはまったく思えない筆致、完成された文体。とくに「知子はもしかして僕のことをちょっと好きだったりするのだろうかと思う。というか、思ってみる」(P. 72)、この「というか」で主人公のモードが即座に切り替わっていく感じが新鮮だし、これまでに読んだ著者の思想に関する文章とも繋がっていく(今年は3冊も読んでいたんだなぁ)。

ゲイの若者の生、という生々しい/なまめかしい主題においては、ハッテン場のくだりとかがにわかに想像しがたく、読者であるわたしの生にはなかったものへの想像力を到達させてくれる。そして、もうひとつ、主人公が修論を書くプロセスという主題についても、どのようにして書いていくのか、その苦悶がドラマ化されている(書くことに関する小説でもあるこの主題は、メタフィクション的である)。東京という都市についての描写も良かったなあ。

千葉雅也の著作に関するエントリー 

sekibang.hatenadiary.comsekibang.hatenadiary.comsekibang.hatenadiary.com

sekibang.hatenadiary.com

sekibang.hatenadiary.com

sekibang.hatenadiary.com

 

カルロス・フエンテス 『アルテミオ・クルスの死』

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫 赤 794-2)

(なんかいつもの商品リンクが貼れない)

メキシコの作家、カルロス・フエンテスの『アルテミオ・クルスの死』がまさかの岩波文庫入りで喜び勇んで買い求めた。いや〜、10年越しぐらいでやっと読めた。なんかガルシア=マルケスの『族長の秋』かなんかに本作の登場人物への言及があり、ずーっと読みたくても絶版だから読めない、という作品だった。待っているあいだにフエンテスが亡くなったり、ほかの作品の翻訳が進んだりしていて、ぶっちゃけ情熱は冷めていたとも言えなくもないのだが。

しかしながら、本作をフエンテスの代表作と位置づけるむきに賛同するにやぶさかではない……。メキシコ革命をタフに生き抜き、財を成し、メキシコの政治にまで影響力を持つようになった男、アルテミオ・クルスが、死ぬ前にあれこれみる走馬灯的な作品である。もうそれだけ。いろいろややこしい手法を使っていて、アルテミオ・クルスの生にメキシコの国の歴史、国への批評が投射されているのだが、例によって、ラテンアメリカ文学の典型をなぞるように屈強で貪欲でエネルギッシュな男の一代記として読んでしまって良いのだと思う。

そう、これがフエンテスの本質なのであって、いろいろめんどくさいことをやらずにメキシコ革命をベースに池波正太郎とか司馬遼太郎とか山本周五郎みたいな小説を書きまくっていたほうが良かったのではないか、と思わなくもない。『おいぼれグリンゴ』みたいなややこしくないやつ。