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文化的消費活動の日記

アダム・タカハシ 「存在の不安、あるいは青年アウグスティヌスと〈メシア的な時間〉」

三田文学 2017年 11 月号 [雑誌]

三田文学 2017年 11 月号 [雑誌]

 

アウグスティヌスの勉強をしようかな、と思って本を読みはじめていたところに、いつもお世話になっているアダムさんより御恵投いただく。感謝。アダム・タカハシによる最新論考、本来ならばマスト・バイである。ちなみに、こないだ岩波からも『アウグスティヌス: 「心」の哲学者』という新著がでており「にわかにアウグスティヌス・ブームなのか?」と錯覚を覚えるような昨今である。

哲学史の教科書的には「意思」を発見した哲学者、として紹介されるアウグスティヌスだが、一方で彼は、その真逆の「恩寵」について考えた人としても読まれてきた。意思と恩寵、この対立軸のいずれかを都合のいいように選択してきた後世の読みを再考し、アウグスティヌスはその対立軸のいずれかを重要視したわけではなく、むしろ、そのあいだで揺れ動く状態、どっちつかずの状態を捉えようとしたのだ、と読みなおす。

論考のなかでは、アウグスティヌスにおけるいくつかの対立軸について言及されるのだが「意思」と「恩寵」の関係と並行するように「(有限な)時間」と「永遠」が並置される。そこでは「有限な時間が終わって(終末があって)永遠(救済)がやってくる」という線的な時間論が語られるわけではなく「有限な時間」と「永遠の時間(=メシア的な時間)」がパラレルで存在している……ここが大変に面白い。

「終末があって永遠(救済)」はそもそもユダヤ教的な伝統であって、アウグスティヌスはそこには乗らない。キリストの十字架上での死によって救済がもう訪れちゃっているというパウロに乗っかって、そういうことを言っていたんだよ、と。

これ、すげぇトレンディな内容だな、と個人的には感じていて『中動態の世界』とも接続されうると思った。アウグスティヌス(4-5世紀を生きた人である)ぐらいまで遡ることによって、西洋哲学の伝統を学ぶことができ「その後の哲学」を理解するための基盤を共有することができる。あらためて、ではあるが、キリスト教思想って西洋哲学を貫く柱のひとつであるのだな、と思った。