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文化的消費活動の日記

石川九楊 『書とはどういう芸術か: 筆蝕の美学』

 

書とはどういう芸術か―筆蝕の美学 (中公新書)

書とはどういう芸術か―筆蝕の美学 (中公新書)

 

習字・書道は、小学校で必ず習うし、習い事でやっていた人も多い、にも関わらず、ほとんどなにもわからないし、文字が書いてあるはずなのに読むことさえできない「書」。本書は、近くて遠い芸術とでも言えるこの芸術について、そもそも書は芸術なのかという過去の議論を掘り起こしながら、その本質と歴史を辿る。

本書の議論を知らない鑑賞者にとって書は、紙という平面に書かれた二次元世界の視覚芸術として多く認識されている。しかし、筆者はまったく別な認識を持つ。書は四次元の芸術だ、というのである。どういうことか。曰く、平面上の世界に、書き手がどんな圧力で筆を使ったのか(深さ)、そしてどんな速度で書いたのか(時間)という次元が加わることで四次元の芸術としての書が成立する。

深さ・時間、という表層に現れない次元にアクセスするために作品の模写(臨書)という行為がある。鑑賞者は実際に筆を持ち、製作者の筆の運びを再現することで、その痕跡を読み取ろうとする。これによって「書きぶり(= 筆蝕)」を問題にしなければ、書は真の理解に達しない、と著者は言う。敷居、高ッ! と思ってしまうが、目ではなく、手による読解とでもいうべき行為 = 臨書の身体性は大変興味深い、っていうか現代思想っぽい。

本書を知ったのはたしか土井善晴先生の著作で言及されていたことがきっかけだったと思う。どういう文脈で土井先生がこの本に言及してたかは忘れてしまったのだけど、数字によって計量可能な「知識」から、肉体によって感じられる「感覚」への回帰、という文脈だったのではなかったか。書における身体論と料理における身体論が重なるのだとしたら納得がいく。

書というきわめて微細な力をアナロジカルに写し出す表現においては(中略)それを表現する言葉が「ぎゆつ」とか「のんびり」「くしやくしや」という一見印象的な擬音・擬態語においてしか的確に表現されえないということはありうるのだ。(P.49)

こういった記述も土井先生の言うレシピに頼らず五感で料理をするという態度と通じるかも知れない。

先日読んだ『日本美術の歴史』では「書」は若干手薄だったので、その補完的な意味でも良い本。前衛書(大きい紙にデカい筆で勢いよく読めない文字を書いたりするヤツ)に対する痛烈な批判も熱がこもっていて(そして皮肉満載で)読み応えがある。

速度を軸とした単純な力動感は単純明快であることから、追随者が輩出し、墨を飛ばしわけの解らない書を書くことを前衛書と呼びならわすことにもなったのである。 (P.52)

 たとえばこんな具合。速度に偏った前衛書をつまらないものとして片付けるこの批判は、ある種のフリージャズにも通ずると思う。