sekibang 3.0

文化的消費活動の日記

G. W. F. ヘーゲル 『精神現象学』

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

 

 昨年からちょっとずつ読んでいた『精神現象学』を読了、って言っても最後の方はもう根気がなくなってめちゃくちゃ流し読みになってしまった。昨年の夏にこの熊野純彦訳の上巻が突如プレゼントとして送られてきてラカンの『エクリ』を読んだらやっぱり『精神現象学』でしょう!」みたいな宿題を課せられた感じがあったのだが、やはり最後まで走り抜くには厳しい本。『精神現象学』については、社会人一年目の頃に平凡社ライブラリーの樫山訳でチャレンジしていて「読みながらいつのまにか気絶して寝てしまっているのが連続する」みたいな状態になったから途中で投げていたのだった。新訳はさすがに読みやすくはあるのだが、読みやすい日本語で書かれていること、即ち、わかりやすいというわけでは全然ない。もっと入門書とかで回り道しながら読むべきなのだろう。

note.com

途中でこういう本でてがかりを得ようと思ったけど、全然足りなかったな。

ただ、最初から最後までずーっとわからないのか、というわけではなくて。急にわかりそうな日本語がでてきたりするし、ああ、なるほど、ラカンってこういうところからアイデアを持ってきてんのか、みたいな部分もあったりして、それゆえに尚更性質が悪く諦めがつかない本、という感じがある。都度そういうフックがあった箇所はノートにとっていたのだが、上巻の終わりの方(P. 508あたり)でフランツ・ガルの頭蓋論を念頭に置きながら精神のある場所について述べている箇所を面白いと思っていたらしい。知覚や感覚と知性の違い(知覚や感覚が認識として入っていくのに対して、知性は違うよね、みたいな)が述べられている。

f:id:Geheimagent:20210105230840j:image

今ノートを見返してると、ハッキリ意味はわからないのだが、面白いフレーズが並んでいるなあ、とバカのような感想を抱く。「思考することは事物であることであり、もしくは事物であることが思考することなのである(下巻 P. 235)」とか、ヘーゲル的な認識世界を象徴するかのようだ。象徴していないかもしれないが。「自己はみずからを聴きとり、同様にまた他者たちから聴きとられる。かくてこの聴きとるところが、自己へと生成した元にそこにある存在にほかならない(下巻 P.346)」とかも抜き出してた。これはたぶん「ラカンじゃん!」って思ったのだと思う。