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文化的消費活動の日記

カエターノ・ヴェローゾ 『熱帯の真実』

 

熱帯の真実

熱帯の真実

 

ブラジルのポップス、いわゆるMPB(Música Popular Brasileira)の第一人者として知られるミュージシャンの自伝……としてだけ流通し、受容するにはいささか特異な、いや特異すぎる本だ。

原書は97年に刊行され、翻訳には2017年の新版に付されたカエターノ自身による序文も収録されているのだが、この序文だけでも30ページ以上あり、その後の本文も500ページ近くある(しかも二段組)。この重厚なヴォリュームもさることながら、この新しい序文からブラジルで話されているポルトガル語の言語的特性に関する考察が開陳され、あわせて本書の執筆にあたっての哲学的・文学的影響が詳らかにされる――そこで並ぶ固有名詞も、ニーチェプルーストレヴィ=ストロース、そしてドゥルーズフーコーといったフレンチ・セオリー、さらにはブラジルの思想家たち――のだからのっけから一筋縄ではいかない。

曲がりくねり、脱線し、衒学的、迷宮的とも言える本書を喜び勇んで買い求めたMPBファンの困惑と落胆が目に浮かぶようだが、抜群に面白く刺激的である。自伝と哲学的考察とブラジルのポップ音楽史や文化、社会に関する批評が複雑に絡み合ったテクスト……とまとめてしまうとここからいくつもこぼれ落ちてしまうものがあるだろう。この異形の多層性・多重性にもっとも近いのは、ロベルト・ボラーニョだ……といえば、海外文学ファン向けの惹句になるだろうか?

盟友ジルベルト・ジルとの出会い(本書の時間軸は過去から未来に向かって直線的に進んでいるわけではない。このためジルとの出会いが語られるのも中盤ぐらいだ)や幾度も言及されるジョアン・ジルベルトへのリスペクト……ブラジル音楽ファンを喜ばせる読みどころも数多く用意されているのだが、それだけでなくこのテクストの豊かさを味わいたいものだ。その豊かさが、カエターノの音楽的多様性、ひいてはブラジル音楽の豊潤さとも繋がって読める。

最後にカエターノ自身が自分の音楽的才能について自己分析している箇所を引いておきたい。この自己分析の鋭さにも彼の知性を感じ驚いたし、心が動いた。

自分の音楽的な鋭敏さは平凡で、時には平凡以下だと思う。驚いたことに、経験はそれを変えた。とはいえ、僕をジルやエドゥ・ロボ、ミルトン・ナシメント、ジャヴァンにしてくれたわけではない。しかし僕は、自分にそわそわと落ち着かない想像力と、音楽の統辞法などを知性で捉える能力があることを認める。このふたつが有意義な曲を生み出させてくれているのだ。とりわけ歌っていると、自分に出会うことができる。歓びと、歌うという行為が僕に与えてくれる知識の深まりが、この道を選んだことを正当化してくれる。(P. 115)

 最後に来日したのは2016年。このときは幸運にもあの艷やかな歌声に接することができたが、再び聴くことができるだろうか……?