6時過ぎ。今日から日記に見出しとか設定するのをやめてみる。そもそも目次と見出しを使ってたのは、noteで日記書いてたときのなごりで、目次だけ無料で見せる設定にしてたからだった。いま全部無料世界で見せているので、設定している意味がなかった。
選挙の結果を確認する。小さな変化は起きたものの、これに甘んじず継続的な政治活動が必要なのだろう。まともなリベラルの受け皿となる政党が育って欲しい。見た目がキレイで共感を得られそうな落下傘候補を擁立しているだけじゃ、ポピュリズムと変わらないわけで。
筋トレ、背中、腹筋。
朝から打ち合わせで外出。
昨夜の「Barakan Beat」で流れていた。メロウでアーバンなレゲエ。
打ち合わせ後、帰宅。強い眠気と戦うだけで、生産的な気持ちにならず。
デヴィッド・シルヴィアンのソロを繰り返し聴いて過ごしてしまった。これもジョン・ハッセルが参加している曲を「ウィークエンドサンシャイン」で聴いたのだった。
Twitterで友達が推していた。LAのプロデューサーのアルバム。ソランジュやフランク・オーシャンとも絡んでいる人らしい。ほどよくメロウ。
夕方、糖質ゼロビール。白ワイン。
風呂。ストレッチ。
ぼくたちは歴史上かつてなく富が偏在する社会に生きている。富裕層と貧困の差は恐ろしく大きく、しかも資本主義反対、気候変動阻止、多様性支持とかいう「意識の高い」主張は、金持ちをどんどん金持ちにする効果しかもたなくなっている。学問も芸術もいまやその道具でしかない。現代美術がいい例(→)
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
だからいまは本当の意味で批判的なのはどういう態度なのか、原理から考えねばならない。リベラルが「意識の高い」主張をしても人々に届かないのは、それこそが体制順応的だとみな見抜いているから。一言でいえば、反アベといえばちやほやされる世界で、それが批判になるわけがないということです。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
これはもうその通りだという指摘だと思う一方で、言論のレイヤーの限界の話、というだけにも思える。資本主義反対、気候変動阻止、多様性支持について本気になって取り組もうとしている市民の、運動のレイヤーもたしかに存在している。意識の高い言論のレイヤーとはまったく無関係に。もう少し肌感覚から自分の考えを書くならば、たとえば、脱経済成長を志向するエコ・マルクス主義者がギャルソンのシャツを着ている、その思想とはおおよそ食い違うようにしか見えない態度を市民が見抜いているパターンもあれば、端的に物理的に届いていないパターンもあるのだろう。いずれにせよ届いていない。そのうえで「本当の意味で批判的であること」を追求するのであれば、ベタに運動のレイヤーに降りていくしかないのだと思われる。Twitterとか、選挙結果とか、投票結果に一喜一憂するモードは、もはやフェイクであり、限界であり、容易に冷笑として受け取られる。言論を運動のレイヤーに降ろすことでしかリアルな批判はありえないのではないか。この話は、言論と運動の断絶の問題としても捉えられそうだ。
インテリとヤクザの断絶の指摘をついこないだも千葉雅也がおこなっていた。言論と運動。このつながらなさは、政治の世界だけでなく、フェミニズムの世界(これも政治の話か)でも指摘できるだろう、し、むしろ、その分析を参照すべきなのかも。