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文化的消費活動の日記

アダム・タカハシ 『哲学者たちの天球: スコラ自然哲学の形成と展開』

アリストテレスの自然哲学(≒ 近代科学以前に営まれていた、現代の自然科学的な学問領域)がアラビア世界を通じて中世のキリスト教世界に受け継がれ、さらに初期近代まで影響を及ぼした、そのグローバル・ヒストリーをイブン・ルシュド(アヴェロエス)とアルベルトゥス・マグヌスというふたりの哲学者(本書での扱われ方でより限定するならば「アリストテレスの註解者」)の読解をもとに紐解く。全体は大きくふたつに分けられる。前半はタイトルにもあるように天球(=天体)を、後半では天体によって秩序付けられる物質的世界の存在論が扱われている。学び多き本。

前半部分では、アリストテレスが論じた「不動の動者」、自らは動くことなく、天体を動かす、というその存在が、一神教的な神と単純に読み替えられるわけではない、という記述に長年の誤解が解かれた。

個人的にもっとも興味をそそられたのは後半部分。アリストテレスの物質理論における四元素論*1と質料形相論*2が、アリストテレス自身のテクストでは同時に論じられることはないという話。

この手の自然哲学的な前提には慣れ親しんでいたつもりだったが、今回初めて四元素論と質料形相論が交わっていなかったことに気付かされて驚く反面、かなりキテレツな理論体系だと思った。これはミクロレベルの話とマクロレベルの話で、扱う存在のレイヤーが異なる、ということなのかもしれないのだが、さらに面白いのは後の註解者たちはこのふたつの理論を統合的に取り扱おうとした点だろう。しかも、そこからはふたつの派閥が生まれている。

筆者はこの潮流を形而上学的な派閥(物質の変化は、形相の変化によって質料が変わる、と考えた人たち)と物質主義的な派閥(物質の性質が変わるから、つまり質料の変化によって形相も変化する、と考えた人たち)と整理しているのだが、こうした派閥の対立が単なる考え方の違いではなく、神学的な問題との兼ね合いのなかで生まれてきたという記述がなんともスリリングである。終章で触れられているアリストテレス主義的な自然哲学が、キリスト教的な統治理論とは別な秩序としてミシェル・フーコーらが論じた話に接続していくのも「そこに繋がんのか!」と驚いた。

*1:世界の物質が火・空気・水・土によって成り立ち、それらの元素は熱・冷・湿・乾の四性質の組み合わせでできている、というアレ

*2:存在が物質的なもの=質料と、その存在のイメージ的なもの=形相というふたつのレイヤーで成り立っているというアレ