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文化的消費活動の日記

2022年12月7日、あるいはニュー・ノーマル的な音楽

4時半に起きる。一昨日の晩から毛布にくるまって寝ている。暖かいからベッドから出たくない気持ちがいっぱい。英語をサボって寝たい気持ちに打ち勝って起きる。英語ルーティン。今日も「英語のハノン」で45分使う。英語ニュースを観るのにYouTubeを開いたらレコメンデーションに外国語を使いこなす代表選手の映像が並んでいた。吉田麻也選手の表現力に感心する。

Beethoven: The Symphonies

Beethoven: The Symphonies

  • Deutsche Grammophon (DG)
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Hを幼稚園に送ってヤニック・ネゼ=セガンベートーヴェンを大きな音で鳴らしながら仕事をはじめる。昨日聴いたネゼ=セガンのピアノ演奏は、新しい即物主義、というよりかは、まさにその普通さが「ニュー・ノーマル」的だったのかもしれない。特別な意味を志向するのではなく、普通を目指す音楽。Tさんがこのピアノから千葉雅也的な要素を感じたというが、それは自分も感じていた。意味のない無意味を思考する音楽、とでも言えるのかもしれない。そして、音楽の意味付けよりも、その存在のありかたへのアプローチのようにも思える演奏。かつて菊地成孔大谷能生の本のなかで語られていた「音韻と音響」というカテゴリでみるのであれば、意味は音韻のほうに、存在のありかたは音響へと紐づくだろう。このベートーヴェンの演奏は、ピアノ演奏ほどニュー・ノーマル的な演奏とは思えないが、古楽的なアプローチを経た現代的な演奏モデルを高い水準で現実化しており、普通に「ああ、今っぽいですね」で終わってしまうところさえある。もう少し色々聴いてみたい指揮者だ。ベートーヴェンの全集は午前中に第1番、第2番、第3番と聴き、スケールの大きな演奏ほど普通に聴こえる。生き生きとした普通さ。それにしてもベートーヴェンのすごさ。第1番からして非凡すぎ(すでに30歳ぐらいになっているので若い神童の作品ではないわけだが)その個性は第2番で大きくスケールアップし、第3番ではひとつの金字塔を打ち立てているようだ。第1番から第3番まで5年にも満たない時間しか流れていない。しかもこの先がもっともっとすごいのだから恐ろしい。

ベートーヴェンを聴きながら筋トレもこなす。腹筋。休憩中にコーヒー豆を買いに行った。コスタリカのヴィラロボスという品種の豆。品種まで気にして買ったことはないが店主に聞くと珍しい品種らしい。ヴィラロボス、という名前に惹かれてそれにした。午後もベートーヴェンの全集を聴きながら仕事の続き。こうしてずっと飽きずに全集を頭から聴いていられる、ということがかなり特殊なことなのかもしれない。この対比に意味があるかどうかはわからないが、クルレンツィスの演奏とは対極にある音楽だ。クルレンツィスの極端な意味付け(クラシックのスコアをダンス・ミュージックとして読み替えるような)は、あきらかに音韻的である。しかし、ヤニック・ネゼ=セガンの《運命》。これはかなり面白い。冒頭の有名な動機がスッと流れていく。肩透かしを食らいそうだ。

sekibang.hatenadiary.com

読了。

宝石の国』の最新刊も読む。これは終わりではないのか……? 諸星大二郎の『暗黒神話』みたいな話になっていた。

ベートーヴェンはHを迎えにいくまでに《田園》まで聴き終える。段々とネゼ=セガンの好みがわかってくる。ホルンがフォルテで吹くときに求める響きの荒れなさであるとか。音量が大きい部分で均等に音を響かせる傾向が見いだせるような。