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Nouvelle茶人、あるいは勉強家によるブログ

檀一雄 『美味放浪記』

 

美味放浪記 (中公文庫BIBLIO)

美味放浪記 (中公文庫BIBLIO)

 

去年の暮れに読んだ『檀流クッキング』が面白かったので。檀一雄が日本中、世界中をかけめぐって各地で食べられている食材を試してみる、というエッセイ集。「国内編」は1965年、「海外編」は1972年に連載されていたらしい。エスニック料理(もはや死語か?)やワールド・ミュージック以前に世界に飛び出した感度は、やはり尊敬に値する。食のコスモポリタン。高級料亭、一流レストランでの飲食は自分には合わない。檀一雄は自分のスタイルをこのように説く。

そこらの町角をほっついて、なるべく人だかりしているような店先に走り込み、なるべく人様が喜んで食べているような皿を註文し、焼酎でも泡盛でも何でもよろしい、手っ取り早くつぎ入れてくれるコップ酒をあおるのが慣わしだ。

食を専業にしている人ではない人たちのなかで「食の文化人」というカテゴリー作るならば、伊丹十三を「クラシック派」の筆頭に数えられるだろうけれど、檀一雄は「ストリート派」の筆頭にちがいない。

https://www.instagram.com/p/Bf5QhqrBQr1/

#nowreading 檀一雄 『美味放浪記』息子が寝たので泡盛を飲みながら読みはじめる。いきなり最高のフレーズに出くわした。「そこらの町角をほっついて、なるべく人だかりしているような店先に走り込み、なるべく人様が喜んで喰べているような皿を注文し、焼酎でも泡盛でも何でもよろしい、手っとり早くつぎ入れてくれるコップ酒をあおるのが慣わしだ。」大賛成。

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東京大学建築学専攻 Advanced Design Studies(編) 『T_ADS TEXTS 01: これからの建築理論』

 

これからの建築理論 (T_ADS TEXTS 01)

これからの建築理論 (T_ADS TEXTS 01)

 

2013年に東京大学でおこなわれた建築関連のシンポジウムをもとにした本。丹下健三の国立代々木競技場と焼き餃子、という表紙の組み合わせが気になったのだが、本書のなかでこのデザインに関する「そのココロは……」という解説はない。ただ形が似てるから並んでいるだけなのか……? この建物の特徴的な屋根については五十嵐太郎の『日本建築入門』でも言及されているが、餃子を想起したことは一度もなかった。

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タイトルは槇文彦磯崎新原広司という日本建築会の生きるレジェンドみたいな人たちによるシンポジウムのタイトルにちなむ。「建築の世界もいまやポモでさ、大きな物語みたいなのもないし、なんでもありになっちゃってるわけ。そういうときに理論ってなんなの」みたいな話をしている。

みんな、それぞれ「建築理論」について意見をもっているのだが、結局は、今の時代、建築家が自分の建築を支えるために生み出しているものでしかなく(自己言及的である)、なんらかの大義名分があるものではない、という話で終わっている。それ、ちょっと身も蓋もないな、って感じだし、誰向けの話なんだろう、という感じではあるのだが興味深く読んだ。

この存在に支えられていると感じることと福島のこと

https://www.instagram.com/p/Bf3DedyBMQR/

2ヶ月以上、息子についてブログに書いていなかった。息子は7ヶ月を超えて、おすわりが上手になったし、飛行機にも乗った(家族3人で沖縄に行ってみたのである)、四つん這いになって後進しかできなかったのが、いまはずり這いでもハイハイでもない、類人猿的というか、ゴリラのナックルウォークを彷彿とさせる独特なスタイルで前進するようになった。もうすぐつかまり立ちをしそうだし、離乳食を食べるのも上手になった。保育園も決まった。

俺もまた転職してみたり(沖縄旅行は前職の有休消化期間中に遂行した)、車を買ったりしてみた。結婚、家、子供、車、と絵に描いたような消費的生活のスタンプカードにすべてハンコが押されたような気持ち。

https://www.instagram.com/p/BfkNJy2hB8B/

息子の写真はGoogle フォトを使って、俺、妻、俺の両親、妻の両親に共有されるようになっている。共有アルバムに写真が追加されるとスマホに通知が入る。息子の写真を見ると、疲れていても前向きな気持ちになるし、やる気が回復する。息子の存在に支えられている、と感じることが多々ある。もしその感覚がなくなってしまったら、心がもうダメになっている証だろうから、潔く仕事を休んだりしたい。

今日で、東北で大きな地震があってから7年経った。震災関連の報道を見ていると、福島のことについて息子にどういう風に教えたら良いんだろうか、と考える。事故が起きたときには、これっぽちもこの世に存在しなかった息子には、事故の責任はまったくない、と思うけれど、無関係なものとして考えてほしくはないな、とも思う。俺の「カントリー」が福島だから、というエゴの強さでもあるけれど。こういうときに、沖縄出身の人の話を聞いてみたくなる。沖縄に生まれて、そこで育ち、沖縄から離れて子供を育てている人が、基地の問題をどんな風に伝えているのか。

千葉雅也 『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

 

千葉雅也の『勉強の哲学』は昨年読んだ本のなかでもトップクラスに面白かった「思想書」であった。本書は千葉の博士論文をもとにしたドゥルーズ論の本。正直「勉強」が足らないせいで、うまく消化しきれてないし、途中で結局これはなんの本なのかわからないままに読み進めることになったのだが、それでも大変に面白い本であった。

ドゥルーズの著作は、わたしが社会人になった頃ぐらいから文庫化されはじまった。いまや有名な本の多くが文庫で読めてしまうのだから、隔世の感がある。けれども、ドゥルーズってわたしにとってはその文庫化されはじまったぐらいのときに「どれ、ひとつ読んでみるべか」と思って手をつけて、思いっきり跳ね返された思い出しかない。過去のブログを調べたら、記憶通り、2007年に『意味の論理学』を読んでいたらしい。10年以上の時を経て『動きすぎてはいけない』で「へぇ、ドゥルーズはそういう思想家だったんだ」って学ぶことができた。

本書のポイントのひとつにドゥルーズの思想への批判に対する回答がある。たとえば、有名なリゾームの概念。中心を持たずにあれこれ繋がっていくネットワークのような関係性をドゥルーズは思考のモデルのひとつにつかった。これは「結局全部繋がっちゃうんでしょ、それって全体主義じゃないの? ファシズムなんじゃないの?」という風にも批判されたのだという。こうした批判に対して、本書は、いや、そうじゃないんだ。たしかに「繋がりすぎてしまう」と全体主義なんだけれども、ドゥルーズはそこまで言っていないんだ、と言う。

そう、「動きすぎてはいけない」のである。動け、でも、動きすぎるな。中途半端な状態にあることがドゥルーズの哲学の最重要ポイントなんだよ、と本書はドゥルーズを読み解こうとする。これが面白かったですね。端的にいま「中途半端が大事」みたいに抜き出しても、なんのことかよくわかんないだろうけれど、すごく今っぽい哲学だなぁ、と感心させられたのだった。

つながる、つながらない、のどちらかではなく、つながりすぎない、という状態。まったくつながらずに引きこもるわけでも、つながりすぎちゃって全体主義になるわけでもない。一か全か、じゃなくて、その間なんだ、と。その表現の回りくどさ、というか、わかりにくさ、というかは、物事が確定されずに揺れ動く様子、揺れ動き続ける様子を表現するためにあったんじゃないか、とも思うし、わたしが学生時代にハマッていたアドルノがいう「浮動的なもの」を表現するひとつの形にも思える。あるいは、アダム・タカハシが読み解くアウグスティヌスの時間概念も想起させられた。

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2018年2月に聴いた新譜

BLOOD [LP] [12 inch Analog]

BLOOD [LP] [12 inch Analog]

 

今月はなんと言ってもRhyeだったな……。もう、ずーっと聴いてた。心地よく、ずっと、繰り返し繰り返し聴けるアルバム。ここまでハマったのはグラミーで賞をとりまくったブルーノ・マーズのアルバム以来かも。前作をスルーしていたことを恥じてしまうが、いま本アルバムと前作を比べて聴いてみると、あきらかに音楽が深化している。ダンスミュージックでありながら、ベッドタイムミュージックでもある、というR&Bの本質を結晶化したよう。2018年暫定ベスト。 

Um Corpo no Mundo

Um Corpo no Mundo

 

リリースは去年だが半年以内なので新譜として扱おう。ブラジルの女性歌手、ルエヂ・ルーナ。これがデビュー盤とのこと。これも良かったなー。Rhyeかこれか、ってぐらい繰り返し聴いたかも。ものすごくアフリカ色が強く、冒頭のギターから西アフリカあたりの伝統音楽の豊かさを感じさせるのだが、そこに彼女のヴォーカルが乗っかると非常に新鮮なブラジル音楽として響く、という。(もはや俺のなかでは完全に食傷気味になっている)いわゆる「ミナス新世代」が霞んでしまうぐらい。 

Terapia

Terapia

 

ラテンアメリカの音楽だとキューバのCimafunkのアルバムも「おー、良いじゃないの」と思った。世界的にも注目されていないので、俺が責任をもって注目しておく。ジャケット写真を見ると「お、キューバのWeekendか?」とか思ってしまうのだが、あんなナヨっとしてなくて、結構暑苦しい歌唱である。ちょっとブラジルのカルリーニョス・ブラウン的な暑苦しさだな、と。ただ、アルバム中に何曲か、良い感じにメロウな風が抜けるときがあって、それがグッときたね。とくにこの「Parar el Tiempo」って曲。


CIMAFUNK - Parar el tiempo [Acústico]

シェニア XENIA

シェニア XENIA

 

話をブラジルに戻すとバイーア出身のシェニア・フランサのデビュー盤も良いね〜、と思った。プロデュースにロウレンソ・ヘベッチスも関連しているそうで、昨年のアート・リンゼイのアルバムと似た感じはある。モダンR&Bとブラジル音楽の融合、という感じではかなり露骨。新鮮さではルエヂ・ルーナに軍配があがる。

Chris Dave & the Drumhedz

Chris Dave & the Drumhedz

 

ヒップホップとジャズをつなぐドラマー、クリス・デイヴのアルバムも結構良かったな。はじめピンとこなかったのだが、繰り返し聴くにつれ、おお、これはすごいゾ、となった。ドラマーのアルバムなので、当然ずっとドラムの音が入っていて、というか、ビートが感じられる内容で、“いまの気分”的には「ビート感希薄な曲が何曲か入ってて欲しいな」って思ってしまうのだけれども。ビラルの参加曲がとにかく色っぽくて良かったですね。

Sleepless Dreamer

Sleepless Dreamer

 

盟友、tdさんの今年の暫定ベストとのこと。ジャンルがApple Musicでは「Indie Rock」と表示されているのだが、あんまりインディー感がない、というか、音は「どメジャー」って感じである。ポップスの王道をいく、というか、なんか歌謡AORみたいな曲もあったりして「なんだこれは、どういうコンテクストからこういうアルバムがでてくるのよ」とか思った。とりあえず、表題曲の「Sleepless Dreamer」は抗えない大名曲。こういうキラキラしたギターのバッキング、ホント、好きじゃないわけがない。


Pearl Charles - Sleepless Dreamer (Single)

For Gyumri

For Gyumri

 

アルメニアのジャズ・ピアニスト、ティグラン・ハマシアンの音楽には、2月末で辞めた会社のなかにあるカフェで休憩してたときに初めてめぐり逢ったのだった。キース・ジャレット的な(ペラい)深遠さ(要するにECMっぽい感じ)がある一方で、おそらくはその出自からきているトラッド感と、ときどき聴くことのできるエゲツないポリリズムに燃える。ちょっと規範からハズれて聴こえるところが魅力的だ。

Pulse/Quartet

Pulse/Quartet

 

さて、ここからクラシックの話をしよう。スティーヴ・ライヒの新譜。《Pulse》は2015年、《Quartet》は2013年に書かれた曲。個人的な意見だけれども2010年の『Double Sextet / 2x5』というアルバム以来の快作だったのではないか。後者は近年のスティーヴ・ライヒの「手グセ感」を感じさせる「まぁ、悪くないよね」という曲なのだが(ちょっと吉松隆みたいな綺麗さがあるんだけれども)、《Pulse》は「ライヒ、こんな曲も書くのか」という新しさを感じさせる(初演当時は80歳だったらしいのだが)。ベースとウワモノではっきりとしたレイヤーの分離があって気持ち良いアンビエンス。「これ、何クトリック・カウンターポイント?」みたいな曲じゃない曲も投げてるところがエラい。

月の光~ドビュッシー:ピアノ名曲集

月の光~ドビュッシー:ピアノ名曲集

 

有名なピアニストが没後100年となるドビュッシーのアルバムを出している。まずはバレンボイム。御歳75歳(ドビュッシーのピアノ・アルバムはこれが初めてらしい)。もう指揮者としてのほうが有名で、てっきりピアニストとしては引退してるのかと思っていたぐらいなのだが、いやいや、これがなかなか素敵なドビュッシーで。メロウです。日本盤の表題曲にも使われている《月の光》なんか、情感たっぷりなルバートを使っているのだが、巨匠然とした重々しさがない。いや、タッチのみずみずしさなんか若々しくて、清潔感があって素晴らしいじゃないですか!

ドビュッシー:前奏曲集第2巻、白と黒で

ドビュッシー:前奏曲集第2巻、白と黒で

 

そしてポリーニドビュッシーを。まぁ、難しいのに聴き映えがしないアルバムを出したなぁ……としか思わないのだが、76歳でこのテクニックはすごいよなぁ……。一番ビックリするのはジャケット写真におけるポリーニの老け具合だけれども。えー! こんなにおじいちゃん感あったっけ?! と思った。 

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」&第29番「ハンマークラヴィーア」

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」&第29番「ハンマークラヴィーア」

 

ビックリといえば、マレイ・ペライアベートーヴェン。「銭湯で録音したんですか?」ってツッコミをいれたくなるリヴァーブがかかっていて《ハンマークラヴィーア》の冒頭で吹いてしまった。来日の予定が体調不良でキャンセルになっているらしく、心配ではあるがこの人ぐらい「名前は知ってるけど、なにが得意なピアニストなんですか?」って思う演奏家はいないと思う。名前と演奏イメージが結びつかない、というか……。 

ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

 

2017年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のカペルマイスターに就任していたアンドリス・ネルソンス。いま注目の指揮者らしい。そのブルックナーの録音。いやー、なかなか良いんじゃないですか、このブルックナーは。4月には7番の録音もでるみたいなので、そっちに期待。4番は曲があんまり好きじゃないので何度も繰り返しは聴けなかった。 

Bach, J.S.: Sonatas for Violin

Bach, J.S.: Sonatas for Violin

 

イザベル・ファウストの演奏はこれまでノータッチだったのだが、今回のバッハの録音はハープシコードクリスティアン・ベズイデンホウトだったので。バッハのヴァイオリンのための曲って無伴奏ばかり聴いていて鍵盤の伴奏ある曲はあまり馴染みがなかったのだけれど、良いですね……。とくに3番の3楽章のアダージョ。これはメロウ。イザベル・ファウストという演奏家もこれをきっかけに過去の録音を聴いてみたら、聴いたことないカデンツァでベートーヴェンのコンチェルトを録音していたり面白かった。

カリプソ娘に花束を (通常盤)

カリプソ娘に花束を (通常盤)

 

2月はNegiccoのひさしぶりのシングルも出てて、もちろんこれも7インチをゲットした。ウェディングソング。完全に娘を嫁に送り出すお父さんの気持ちで聴いてしまって泣けたね……。


Negicco「カリプソ娘に花束を」(作詞・作曲 connie 編曲 YOUR SONG IS GOOD)

 

ロベルト・ボラーニョ 『チリ夜想曲』

 

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)

 

これまで読んだボラーニョ作品のなかでは、一番「普通」の小説かも。死の淵にいるチリ人司祭による語りの形式をとっていて、ボラーニョの作品に特徴的な分裂的な、多層的な声がない。あくまで語り手(カトリックの司祭であり、詩人であり、批評家である)ひとりの視点で固定されている。一方で、その独白はときに記憶の混濁を表現するかのようで、基本的には直線的な時間軸で進んでいるハズなのに、ひどく区切りが曖昧だ。深い眠りに入るまえにみる夢みたい。だが、それは「夢のようなおとぎ話」というわけでなく、悪夢的であるのがボラーニョらしい。歴史的な教会建築を保護するために飼われた鳩殺しのための鷹たち、ピノチェトに請われて秘密裏におこなわれるマルクスに関する講義、華やかな文壇パーティがおこなわれる館の地下でおこなわれる拷問。エルンスト・ユンガーなどの実在の作家も登場し、死にゆく者が語る人生は、嘘とともに振り返られるチリの現代史でもある。

https://www.instagram.com/p/BfU9qQgB2W5/

#nowreading ロベルト・ボラーニョ 『チリ夜想曲』まったく改行がない文章の密度と意識と流れ。主人公が詩人を目指しているあたり、ボラーニョ作品の「型」を感じるが、これまで読んだなかでは一番普通の小説かも。まだ読み途中だけど、分裂的(多層的)なヴォイスがまだ出てこない。

 

フランシス・スコット・フィッツジェラルド 『グレート・ギャツビー』

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

本屋で導かれるようにして手に取った村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』。たしか大学2年のときの英語のクラスで「なんでも良いからペーパーバックを1冊読んで感想を書け」という課題があり、無謀にもこの原書にチャレンジした覚えがある。その後、野崎孝の訳で気になる部分だけチェックする、という読み方をしていたのだが、今回「読み直し」てみて、俺はいったいなにを読んでいたのか、という思いに駆られた。んー、すごい小説。比喩の超絶技巧がこれでもかと連続し、まばゆいところはひたすらギンギラに、陰鬱なところはひたすらじっとりと描きこまれていてすごい。

恋愛小説であり、ミステリーでもある。そして、青春小説でもあろう。もちろん、主題のひとつであるギャツビーのもの哀しい虚構性にグッときつつも、語り手であるニック・キャラウェイの目の前でうんざりするような悶着が起こったときにその日が自分の30歳の誕生日に気づくところ。ここがとても良かった。ニックはその瞬間、人生の個人的に節目、というか、青春時代が終わってしまった! みたいな気づきをえる。絶望! かなり大げさな表現だけども、そういう気持ちはわからないでもない。本書の執筆を終えたときのフィッツジェラルドはまだ30歳になっていなかったのだけれども。

そういえば、昨年読んだチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の訳者解説で、この小説との関連性というか、親近性について触れられていた。今年は年始に『ノルウェイの森』(この小説が印象的な使われ方をする)を英語で読み直した。『グレート・ギャツビー』のまわりをグルグルとまわっていたのかも。これも完璧な小説だなあ。

https://www.instagram.com/p/BfFdFXOBGZr/

#nowreading フィッツジェラルド 『グレート・ギャツビー』たしか19歳ぐらいのときに原書で読もうとしてガリガリと辞書引きながら格闘した覚えがある。その後、野崎孝訳で気になるところだけチェックする、みたいな読み方をしていた。いま新しい訳で読みはじめたら「俺はいったいなにを読んでいたんだ?」と思うことが多々ある。