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文化的消費活動の日記

細馬宏通 『うたのしくみ』

 

うたのしくみ

うたのしくみ

 

長らく読みそびれていた細馬宏通による音楽評論の本を読む。楽譜や専門用語をほとんど使わずに、ポピュラー・ミュージックの楽曲を分析したWeb連載と、CDのライナーノーツや単発の評論が収録されている。ジョアン・ジルベルトの「サンバがサンバであるからには」の回はリアルタイムで読んだと思う。先日、この記事(↓)を読んで思い出して買い求めた。

note.mu

本書における楽曲分析は、音楽理論の方向からでなく、音楽における歌(歌詞とメロディ)そして伴奏によって身体がどうなってしまうのか、どうしてこの音楽は気持ちいいのか、という身体感覚の分析からアプローチされている。同時に社会的な文脈も振り返られるのだが、そこで蘇るのも歴史のうえでの、過去のリスナーの身振り、手振り、リアクションなのであって、身体の歴史の本とでも言えるのかも知れない。語られる音楽だけでなく、本書における日本語の音声学的記述を読むときに、読者の身体にもまたインパクトがある。日本語という自明すぎるもの・身近すぎるものを改めて観察する楽しさ、声を出さずに、声帯や唇や舌の動きを確かめたときの、その驚き。

アリソン・ゴプニック 『思いどおりになんて育たない: 反ペアレンティングの科学』

 

思いどおりになんて育たない: 反ペアレンティングの科学

思いどおりになんて育たない: 反ペアレンティングの科学

 

著者はアメリカの心理学者、でありながら哲学にも関心を持ち、プライベートでは3人の息子を育てあげ、いまは可愛い孫にも恵まれて、夫はPixerの共同創業者、というなんかスゴい人。

近年「子供を全員東大に入れたママが教える子ども教育法」みたいなのが脚光を浴びて、個人的にそういうのはちょっとキモいな、いや、あの、個人攻撃になっちゃうけど、あの人、ちょっと怖いよね、と思っていたのだが、そういうのはUSでも一緒みたいでUSではそういう「子どもを望ましい感じ、価値ある感じに育てるための規範」っていうのが「ペアレンティング parenting」という言葉で語られているらしい。そこには価値ある子どもを育てることが、親としての成功、という価値観が隠れている。子どもの成功は親の成功だ、と。

本書は、人間の育児や親子関係が生物学的にみてどうなのか、また人類の歴史の中でどのように家族や育児が変わってきたのか、そして子どもの発達や能力について心理学や神経科学の研究でどのようなことがわかってきているのか、とかなり広範な領域を扱っているのだが、副題にあるような「反ペアレンティング」のトーンは後半になって色濃くなる。

そこでなされる批判は、ざっくり言えば「ペアレンティングが目指す成功って、結局は現代社会で稼げるようになる、っていう極めて限定された価値観でしかないよね」ってことだ。良い成績をとって良い大学にいって良い会社に入る。そのために可能性のひとつであるはずのものが障害とみなされる。ADHDの診断数の増加と「試験の点数重視の政策」には相関がある。ADHDの注意力散漫は、試験の点数を取るための勉強の妨げになるかもしれない。

しかし、注意力散漫は「いろんなところに注意がいく」ということでもある。この「能力」は、場所や時代が変われば、例えば危険が潜むジャングルでは役立つんじゃないのか。昨今の変化が激しい世相において、親の世代が求める価値を子どもに投影することの疑わしさはよりハッキリするように思える。プログラミングだ、英語だ、って今言ってるけど、それ子どもが大人になるときにまだ価値になってるかな? もしかして将来『北斗の拳』の世界になってないかな?(ヒャッホ〜〜〜!!)

「The Gardener and the Carpenter(庭師と大工)」という原題は、大工が家を作るように子どもを親が意図したように育てる*1のではなく、庭師のように子どもが育つのを見守るのが適切なんだよ、ということを意味している。

その見守り型のスタイルこそ、豊かな育児のかたちだ、と思う。紋切り型の表現ではあるが、子どもの可能性を大切にすること。学校の勉強ができなくても良いじゃん、そもそも子育て自体に成功とか失敗とかないじゃん、それ自体価値じゃん、という価値観*2

自分も育児に関わるひとりとして、この価値観には共感するものがある。その一方で、そういう豊かさって経済的な豊かさをある程度前提としているよな、っても思ったりする。今、この瞬間だけ見たらたしかに学校の勉強を頑張らせるって稼ぐためには一番最適で有効な投資先だと思うし、そこにかけるしかない、っていう気持ちも否定できないんだよな……。

関連エントリー

rmaruy.hatenablog.com

担当した編集者の方による紹介記事。

*1:ふと思ったが、この比喩はアリストテレスが用いた家と大工の寓話を下敷きにしているのか?

*2:もちろん、子どもがいないこと/作らないことを否定しているわけではない

ブルース・フィンク 『ラカン派精神分析入門: 理論と技法』

 

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法

 

ラカン入門のベテラン」としての功徳を積むために長らくAmazonの「ほしいものリスト」に入れておいた本を読む。最近、向井雅明の『ラカン入門』を読んだばかりなのだが『ラカン入門』ではじっくりラカンのテクニカル・タームの解説に時間をかけて説明しているのに対して、『ラカン精神分析入門』のほうはラカンフロイトが報告している臨床例や著者自身による臨床例を中心にラカン派の理論や技法を説明する感じで、切り口の異なる入門の仕方。お互いの足りていない部分を補完し合うようで、この順番で読むのは非常に学習効果が高い気がして(あえて嫌いな物言いをすると)わかりみがものすごくあった。

ラカン入門』は正直、途中で息切れしてしまったけども、この本は最後まで息切れすることなく読み切れた。それは著者も懸念してる通り「ラカンを簡単に紹介しすぎてる」ということなのかもしれないが、最後まで走りきれる、というのはとても大事だ。唯一の難点をあげるならば原注がめちゃくちゃ多くて、しかもそこに結構重要なことが書かれているのでイチイチ本の後ろの方を読むのがめんどくせえ、というぐらいなもので。この驚異的なわかりやすさは、アメリカではまったく主流じゃないどころかインチキだと思われている精神分析 を臨床の中で実践し、かつ、それを広めようという気概からくるものなのか。そしてそんなものを日本語で訳していただけるのが、ありがたすぎる。

とにかく「こんなにわかっていいのか」という感じではあったのだが、分析主体と分析家の関係(クライアントに対して分析家はどうあるべきなのか)という指導については、ああ、こういう関係性、上司と部下、売り手と買い手、コンサルタントとお客さん、とのあいだでもあるよね、と思う部分もあり、生活レベルで精神分析がオチてくる感じがある。また、ラカン曰く、メンタルの病はそのメカニズムから3つにわけられる(神経症、精神病、倒錯)。で、ラカンは「ノーマルな人」っていうのはみんな神経症なんだよ、とか言ってるらしいんだ、が、本書の神経症に関する記述を読んでて「これ、俺じゃん!!」と叫びたくなった箇所が何個もある。

さて、そろそろ、「セミネール」関連の本に挑戦してみるか……(いや、日和ってまた別な本を挟むかも……)。

関連エントリー 

sekibang.hatenadiary.com

 

 

鏡リュウジ 『魚座の君へ: 魚座の君が、もっと自由にもっと自分らしく生きるための31の方法 』

 

千葉雅也のこのTweetキッカケで鏡リュウジの本を読んでみる。もちろん名前は知ってるし、なんかイベントで顔をお見かけしたこともあったのだが、その著作を手に取るのははじめて。曰く「魚座は夢に遊び、夢に生きる。」そうで、恐るべきことに、すごい、あ、コレ、分かるわ、俺だわ、ということが書いてあってビックリした。自分も千葉雅也的な使い方ができそうな本。

『土曜日の朝と日曜の夜の音楽。』

 

仙台の友達がインスタで話題にしていたムック。『& Premium』のサイトで連載されていた記事をまとめたものらしい。この雑誌、我が家で唯一定期的にチェックしている雑誌で、まぁ、好きと嫌いのあいだにあるセンス(もっと正確に言えば、好きになってはいけない、ウェルメイドな「ていねいな生活」というか)なのだが、気持ち良い音楽セレクション、って感じでこの一冊は役に立った。気になったものを片っ端からApple Musicで聴いていく。そして、このムックに寄せられた軽い文章のノリで、音楽について書いていきたい気分にもなっている。

 

高橋ユキ 『つけびの村: 噂が5人を殺したのか?』

 

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

 

今年、SNSで話題になったnote発のノンフィクションの書籍化。山口県の(いわゆる)限界集落で起こった連続放火事件についてのルポタージュ。

これは一種のアンチ・ノンフィクション、ともいえるのではないか、と読みながら感じていた。著者はあとがきのなかで「ノンフィクションが売れない現状」について触れながら、ぼやきにも近い思いを吐露している。

いま、普通の”事件ノンフィクション”には、一種の定型が出来上がってしまったように感じている。犯人の生い立ちにはじまり、事件を起こすに至った経緯、周辺人物や、被害者遺族、そして犯人への取材を経て、著者が自分なりに、犯人の置かれた状況や事件の動機を結論づける。そのうえで、事件が内包している社会問題を提示する。(中略)いつの頃からか、出版業界は、このスタイルにはまっていない事件ノンフィクションの書籍化には難色を示すようになってしまった。

わたし自身、ノンフィクション*1にそれほど親しみがあるわけではないから、この現状に加担するもののひとりである、という自覚はある、一方で、そうした現代のノンフィクションの典型例についても思い当たるものがあった。いわば、そのスタイルは、(あえて覚えたての思想の言葉を使って説明するならば)無数/無限に意味づけできる現実を有意味的に切断すること、と位置づけることができよう。そして、このスタイルを、著者はとらない。というかそのスタイルをさまざまな理由から断念している。だが、その断念から生まれたものこそが本書の一番の魅力であり、読みどころなのだろう。

一言で言えば「この村、なんなのか?」という意味づけしがたい「不気味さ」への直面である。事件の異様さもさることながら、『魔女の宅急便』のキキのイラストが屋根に書かれた家屋*2、事件の前に起きた暴力事件をあっけらかんと語るその口調、被害者遺族が亡くなった途端にガラリと変わる村人の評価……。著者が目の当たりにした困惑や恐怖を読者は追体験する。社会問題のような切り口に還元しきれない、というか、そうした切り口からズレた現実の気持ちの悪さ/居心地の悪さは「もしもシャマランが一人称視点のホラー映画を撮ったなら」というイメージを抱かせる。

現実の時間の流れは「被告人保見光成の死刑判決が確定する」という事実に収斂されていくのだが、著者の切り口はより拡散していくようである。そこでは「責任能力の認定の恣意性」や「被害者のケア」といった制度や現状の問題点の指摘もおこなわれているのだが、追加取材の結果より詳述される金峰神社の歴史や祭りについての記述が諸星大二郎の『妖怪ハンター』を想起させ、味わい深いものがあった。この一連の記述は、いずれ消滅するであろう村の末期の様子を描いたものとして『百年の孤独』の終盤にもつながっていく……。

書籍化前にもnoteで課金して全篇を読んでいたのだが、書籍化にあたっては追加取材がおこなわれ、ヴォリュームは倍ぐらいになっている、のでnote版を購入した人でも買う意義は充分、というか、note版を買ってこのテクストの不気味さにハマった人こそ、書籍を買うべき、と言えるだろう。

*1:というジャンル自体の定義についても再度確認するなら、おそらくは、社会問題・事件に取材したジャーナリスティックなテクスト、ということになるだろう。歴史書の類はおそらくはそこには含まれない、ハズである。

*2:この建物の様子はGoogleストリートビューでも確認できる。というか村の様子はほぼストリートビューで見れるようになっているので、本書を読みながら確認していくことをオススメしたい。犯人と結論づけられている保見光成の自宅も見れる。

淵田仁 『ルソーと方法』

 

ルソーと方法

ルソーと方法

 

東浩紀の著作を読んでいたときだったか「2020年の東京オリンピック以降にルソーがくる!」という神託めいた直観が降りてきていたのだが、そんなタイミングでTwitterで交流のある著者*1のルソー研究書がでた。 博論をもとにした本。ルソーは一切読んだことがないのだが「ルソーがくる!」という直観が確信に変わるような一冊であった。面白かったです!

全体は2部に分かれており、第1部は「認識の方法」、第2部は「歴史の方法」となっている。大きくは(タイトルにあるとおり)ルソー「と」方法であり、また、過去の研究においておこなわれた「ルソーは発生論的方法/系譜的方法をとった思想家である」と評価を「その評価、なんかまかり通ってるけれども、実際それってどういう方法だったのよ、単なるレッテルばりでしかなくない?」と問い直すものでもあろう。そこではコンディヤックを代表としたルソーに先行した思想家の方法との対比がおこなわれながら、実に今っぽい、東京オリンピック以降にくるであろう思想家、ルソーの新たな姿が浮かびあがる。

冒頭で引用されてる書簡の内容からしてルソーは「今の気分」である。ここでルソーは「命題はかなり豊富に湧き出るくせに、帰結は一向に見えないのです」、「私の頭に浮かぶのはばらばらなことばかりで、私の著書のなかで観念を結びつけるというよりは、私は山師のやり口のような〔命題の〕つなぎ方を使い、貴方がた大哲学者たちはまっさきに騙されてしまわれるのです」と告白する。

これを適当な思いつきを多動力にまかせて、それっぽく言ってみるテストしてるだけ、と曲解することも可能であろうが、当たらずとも遠からず、と言ったところかもしれない。この引用部には、コンディヤックの思想の中心となる「自同性原理」(雑な理解を提示するのであれば、AとBを結びつける際に、AとBの同一性を根拠として結びつけていく論法)を拒否するルソーの態度が示唆されている。

ルソーの態度とは、基本的には自同性原理による分析でおこなわれる一般化・抽象化の拒否であり、もう少し具体的に言えば「AとBって同じじゃないよね!!」ということである。同じじゃないから、一般化・抽象化は容易にできない。ただ、我々は一般化・抽象化を実質的におこなっている。それを可能にしているのが、理性なのであり、それは「内的感覚」からくる「それっぽくない、ソレ?」という感覚によって支えられている。無限背進に陥る推論の連鎖を切断するための理性、内的感覚。このへんも「今の気分」だ……。

本書の読みどころといえば「あとがき」も忘れてはならない。本論は短い文章によって明晰に構成された、いわばザッハリッヒな論述が続くのだけれども、あとがきがエモい。著者の学問遍歴が物語的に語られているのだが、エモすぎる。先ごろ復活を果たしたNumber Girlの『シブヤROCKTRANSFORMED状態』に収録された「Super Young」*2において間奏とともに聞くことのできる向井秀徳の語りのオマージュが認められる。前代未聞であろう。アサヒスーパードライを飲みながら、ズレた眼鏡をかけなおしながら読まれるべき本である。

*1:たしか東大で開かれたヒロ・ヒライさんの特別講義後に一度だけ飲んだ記憶がある。その際、学年が同じ、ということが判明し、音楽の趣味が似ているのでちょいちょいやりとりさせていただいている

*2:いま気づいたが、これ Superchunkをもじった曲名なのか?