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文化的消費活動の日記

丸谷才一 『日本文学史早わかり』

丸谷才一による日本文学史を扱った批評・エッセイ集。文学、といって小説を思い浮かながらいざ読みはじめたのだがぜんぜん違う内容で(毎度調べてから読めよ、という話であるのだが)面食らいながらも大変おもしろく読んだ。本書で取り扱っているのは大部分が詩、とくに和歌についてであり(小説の話も終盤にちょっとだけでてくるが単発のエッセイを収録している感じである)「早わかり」と言いながらも、その言わんとするところが日本文学史のエッセンス的なものを提示するよ、的な感じであるので、文学史がサクッとわかるような本ではない。そもそも「早わかる」ために人物に関する丁寧な説明や和歌の解説などもすっ飛ばしているので、ある程度食らいついていくための知識が必要となる。ともあれ、文学史の全体を眺めたときに小説なんて言うのは19世紀頃から流行ったものであって、それ以前の文学と言ったら詩、であって詩こそが文学史のメジャーなのだ*1、という冒頭からして「言われてみれば!」的なワンパンチ、って感じ。

著者は近代以前の日本文学を個人主義的なもの(個人の想いを表現するもの)としてではなく、共同体的なものとして論じていく。もちろん、恋愛を読んだ歌も数多く残されているのだが、そのなかには題詠(テーマを設定して詠まれた歌)という枠組みのなかである種の競技性、あるいは社会性をもって詠まれていたパターンもある。そもそも勅撰和歌集という天皇の命によって編纂された詩集という形式からして共同体的な性格を強く帯びる。なぜ、天皇が詩集の編纂を命じたのか。ここでの勅撰和歌集は一種の権力装置として論じられている。まずは呪術的な和歌を配布すること、そして、読者の感性を和歌集によって秩序付けることで管理をしやすくするという目論見(識字率のことを考えるとこの説はかなり厳しいのではないか、とも思うのだが)があるのだという。後者の部分は18世紀フランスにおける百科全書と重なっても読める。

当初はこうして政治性を帯びていた勅撰和歌集という「場」は、次第に宮廷や知識人の場として機能しはじめる。本歌取りのような技法も要するに「わたしはそういう文化をわかってるんですよ、宮廷のしきたりっていうのを押さえてますよ」とアピールするようなものであったのだ(ゼマンティクの活用、っていうのだろうか)。勅撰和歌集に自分の作品が選ばれることはとても名誉なことだったし、そういう作品が詠めること、あるいは自分の代わりに優れた歌を詠める代作者を雇えることは自慢にもなったらしい。そうした時代における編纂者の役割に筆者は注目している。当時の編纂者の仕事のキモはただ良い歌を選ぶだけでなく、どう並べるかが重要であった。特別良い歌ばっかり連続するとそれが良い歌に見えなくなってしまうから、ちょっと凡庸な感じがする歌のなかに良い歌を散りばめよ、みたいなマナーさえあり、おまけに凡庸な歌が足りなかったら編纂者自身が「詠み人知らず」のテイで歌を作っちゃうことまであったのだとか。編集のなかに創造性が見出だせるところが面白い。

しかし、こういうものが書けてしまう教養の厚み。昔の作家っていうのは偉かったんだなぁ。

*1:この小説の流行の理由については、西洋の例も引きながら、新たに読者層として誕生した(無教養な)市民にも優しいのが小説というフォーマットであったからと論じられてもいる。それまでの韻文による文学的伝統を読み解くためには教養が必要であるのだが、いつしか教養が必要な文化は無教養でも参入できる文化に食われてしまった