同じ著者がルソーを扱った『透明と障害』は難しくて途中で読むのを諦めたのだが、モンテーニュを扱ったこの本は最後まで読み通せた。38歳で隠棲してから死ぬまで『エセー』を書き続けた人物のテクストを、彼が生きた社会(16世紀)やその背景にある思想との関係を絡めながら、人間の主体論的に読み解いた本……って感じなんだと思う。
その隠棲生活は、憧れであった観想的生活を営むためであったのに、その生活によって自らを落ち着かす、自らの存在を把握するためであったのに、その観想の成果物のひとつであるテクストを書く、という行為によって、把握する対象である自己が、自我が、揺れ動きまくってしまう、テクストに自分を書き連ね、固定したすぐそばから、そのテクストが自分を動かしてしまう、「モンテーニュは動く」!
で、その際限なく動きすぎる自己を相対化し、あるいは有限化するのが、他者であったり、身体(病気)であったり、社会であったりする、という話が続く。
「愛を語る」という章では、セックスがそうした相対化/有限化の一端を担う相互行為として読み解かれるのだが、やれ「相手がマグロ状態のセックスは全然良くない(大意)」だの、やれ「ジジイが若い女とやるセックスはみっともない。ジジイになったらむしろ若い男女のセックスを見る側になったほうが良い(大意)」だの、「自分の男性器が小さいから浮気されても仕方ない(大意)」だのと、モンテーニュが書いていたことが言及されており、いろいろと身につまされるし、わかる、わかりますぞ〜、的に思った。
とくに「ジジイが若い女と……」みたいなところとか、パパ活とかやってる層に足を踏み入れつつある年代になってる自分からすると、ホント、リアルっていうか、16世紀の人にこんなこと書かれちゃってることに驚きを禁じえない。その「みっともない」って感覚は、20代やそこらのピチピチした(この言いざまこそ、ジジイっぽいのだが!)人間にはわかるまいとも思う。その一方でそのみっともなさを認めながら生きていく、その悲しみを背負った生き方こそ、大人の階段をのぼることでもあって「おまえらにはわかるまい」ということがヒネくれあがった誇りにもつながるのだが……。
「モンテーニュは動く」! っていうか、「動きすぎてはいけない」!って感じの本なのかも。ひさびさに小難しい本を読んだ気がするが面白かったです。