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文化的消費活動の日記

ハン・ガン 『ギリシャ語の時間』

 

ギリシャ語の時間 (韓国文学のオクリモノ)

ギリシャ語の時間 (韓国文学のオクリモノ)

 

病院の待合室でぼんやりテレビを見ていたら「いま、K文学がきている」という話を聞いた。近年、K-Popについては英米R&Bのトレンドを完全に取り入れた楽曲作りで注視を続けていたのだが、今回、ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』を読んだときに抱いた感想は、まず、この小説もK-Popのように「グローバルなものである」ということだ。もっと文学の言葉を使うならば「世界文学」。

冒頭からボルヘスの名前があがり(主人公のひとりは徐々に視力を失っていくボルヘス的な男性だ)、意味のレベルではなく、音声のレベルですら読める人間がいるとは思えないギリシャ語・ギリシャ文字(ちなみにここで指示されているギリシャ語は古典ギリシャ語のことである)が用いられ、プラトンの議論が挿入される。言葉・言語についての小説としても読める本作は、雑な物言いだけれども「知的な小説」である。

韓国の文学マーケットのことや、文学読者層のことはわからないが、こんな小説、国内マーケットで売れるようには思えない。もしこんな小説が日本で出たとしても、まず売れないだろう、と予測する。はっきり言ってインテリ向け。なにか間違いがあって本作が大きな話題を呼ぶことがあったら「「読めない読者」によるひどいAmazonレヴュー」が溢れかえるにちがいない。

そもそも国内マーケットを狙ってないんじゃないのか、と思うのは、本作のなかで描かれる風俗・風景にローカルなものが希薄に思えたから。小説中では、ドイツと韓国というふたつの国が描かれるのだが、土地の名前だけが利用されているだけ、という感じがする。別にドイツと韓国じゃなくて、フランスと日本でも話が成立しそう、というか(韓国とドイツになんか歴史的なつながりがあるのかもしれないけど。個人的に知っているのは作曲家、ユン・イサンが住んでたことぐらいだ……)。

つまりは「ローカルなものが希薄であるがゆえに、グローバルで読まれる」というロジックが成立しているように思うのだった。イギリスで賞を取った作家、というのも頷ける。ノーベル賞とか取りそうな、そういう作風な気がする。

いくつか「え、このエピソードってなんの意味があるの?」という箇所もあるのだが(伏線の回収が気持ち良い、という読み方をする小説ではないのだと思うのだけれど)、強いヴォイスを感じる本である。情景描写のやり方も、余白が多い白紙のなかに(これは本書のレイアウトからもイメージを喚起させられていると思うが)、小さいけれど印象的な色が、ビシ、ビシ、と置かれていくよう。K文学には、引き続き注視していきたい。

松浦弥太郎 『日々の100』

 

日々の100 (集英社文庫)

日々の100 (集英社文庫)

 

松浦弥太郎的なもの(要するに、ていねいな暮らし的なアレである)」に対しては、注意してかからないといけないぞ、と思っているのだけれども『センス入門』は良い本だった。本書は、筆者が日々愛用しているアイテムに対して、短い文章を寄せた100のエッセイ集。価値を押し付ける感じではないのだが、筆者のこだわりが開陳されたカタログのようである。

実はちょっと前から松浦弥太郎Instagramをフォローしたりしているのだが、なんか、不思議な感じだよな、と思っている。見た目は、ホントに普通のおじさんじゃないですか。特別お洒落にも見えない。とにかく「普通のおじさん」に見える。そして、ポルシェに乗っているらしい。本書を読むと、その「普通のおじさん」ぶりに、数々のこだわりがあるんだろうな、ということがわかる。きっとすげえ良いセーターだったり、すげえ良いシャツだったりするんだろう、と思う。全力の普通さ、本当のノームコア……?

 



川上未映子 『ウィステリアと三人の女たち』

 

ウィステリアと三人の女たち

ウィステリアと三人の女たち

 

表題作の中編と3つの短編を収録。それぞれの話はストーリー的にはなんの関連もないし、見事に読み口や手法がバラバラなのだが(最初の2篇「彼女と彼女の記憶について」と「シャンデリア」は、超高級ブランドの固有名詞が登場するところだけ似ており、その部分が菊地成孔が書く文章みたいに読めてしまう、いや、川上未映子菊地成孔ゴーストライター説、それ、あると思います、もちろん冗談ですが)、ゆるやかなつながりを見出せる、ここに登場する女性の主人公たちはみな、なんらかの傷や闇、痛みを抱えている。乱暴な感想に違いないが村上春樹の『女のいない男たち』を想起したのは、この作品集が「男のいない女たち」に読めて仕方がなかったから、それから作品の持つ雰囲気が似ていたからだ。わたしはこれまで著者の作品について初期のエッセイと処女小説しか読んでいなかったんたんだけれど、およそ11年後に発表された本書を読んで「この作家が、こうなったのか!!」と大いなる驚きをもって読んだ。ちょっと久しぶりに夢中で読んだ小説かも。冒頭の「彼女と彼女の記憶について」。前述した通り、この作品では主人公の高いプライドを伝えるように超高級ブランドの固有名詞が登場する、なんか嫌な女の自意識小説か、そうか、とここまでは11年前の作品からの延長のように読めるのだが、そこ、からの怒涛のホラー展開が凄すぎて。どの作品も明確な謎解きやオチめいたものが提示されるわけではない、のだけれども、すごい。とくに表題作。これは不妊治療の話が出てきたり、モラハラっぽい夫と主人公、この夫婦の関係性をめぐるリアリズムを期待させておいて、ミステリアスな過去の記憶へとリニアに接続されていく、夢のような、映画のような中編。流れがとても気持ちよく、小説という表現形態でしか味わえない愉楽を味わえる。ロジカルな積み上げから逸脱して物語が成立している、というか、そう、ふんわりとした部分を多く残しながら。と、とてつもない作家になってんだな、川上未映子、ええ、ファンになりました。

今村楯夫・山口淳 『ヘミングウェイの流儀』

 

ヘミングウェイの流儀

ヘミングウェイの流儀

 

文学史において、ヘミングウェイほどアイコニックなアイテムが広く知られている作家もいないだろう。たとえば、フローズン・ダイキリ、ボーダーのバスクシャツ(これはピカソも愛用した)、ロレックスのバブルバック。そのファッションは実用性を重視したもので、無骨、時には粗野とも思える服装は、いわゆる「ヘビー・デューティー」の先駆である……というイメージを残された写真や遺品、買い物の領収書(ヘミングウェイは「捨てられない人」だったらしく領収書だのメモだのなんでもとっておいていたらしい)から調査して突き崩そうという大変おもしろい本。

実はヘミングウェイ、若い頃はめちゃくちゃ尖ったオシャレびとであり、服装や持ち物にはとことんこだわりを持っていた。そこには鎧のようなマッチョイズムを終生身にまとい続けようとした作家のイメージが覆るような意外性がある。ヘミングウェイのセンスを紐解くだけでなく、彼が生きた時代のファッション・カルチャーについても学べるのが良いところ。

ヘミングウェイについてはずいぶん前に熱心に読んでいたけれど、そのバイオグラフィーについてはよく知らなかった。本書によれば、要するに「良いとこのボンボン」なんだよね。それがマッチョな方向に行く、というのはマイルス・デイヴィスのメンタリティにも近い気がするし、また、彼のアイコン性は伊丹十三とも重なるようにも思う。

妙な言い方だが、ひとつひとつの「遊び」もまた真剣だった。その真剣さが、時には悪戯に似た子供っぽさにも見えることがある。いやそもそも「遊び」に興じるのはどこかで、永遠の少年や少女の心を持ち続けることなのだろう。自らの体験を冷徹かつ即物的に描き、即物的なものの描き方に対する固執は、単に実体験にとどまらず、〈モノ〉に対する関心に通じる。〈モノ〉は単なる物にとどまらず、そこに真性さを求めていたように思われる。

本書131ページより。こうした性格・遊びへの取り組みも、死後語られる伊丹十三の姿と通ずる。

などと考えたのは、先月松山まで行って伊丹十三記念館を見てきたタイミングだからだったりもするのだけれど。

https://www.instagram.com/p/BqlyQ2bjvVc/

#松山 念願の伊丹十三記念館へ。ここ数年、ハマっている、というか、俺の生き方の何割かを規定しまったような人の記念館に行けて感無量。3枚目の写真、伊丹十三が小学三年生のときに書いた作文と言うのだが、表現が達者すぎて「ああ、すごいな……」という気持ちしか湧かなかった。

お洒落名人 ヘミングウェイの流儀 (新潮文庫)

お洒落名人 ヘミングウェイの流儀 (新潮文庫)

 

文庫化もされているが、単行本で読むのをおすすめする(写真がとても重要な本なので)。

レイモンド・チャンドラー 『大いなる眠り』

 

大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

村上春樹訳。役者の解説でも触れられているけれど、作家の世界観を提示するために「ミステリー」の構造を利用している、という指摘は言い得て妙であり、ここには探偵、美女、暴力、悪人、酒、煙草、ピンチ(と脱出)、そして謎解きがある。「007」的な「お約束」の物語構造、だから(なのに)読ませる。ここがすごい。で、この小説内でのフィリップ・マーロウ、33歳であって、わたしと同い年なんだよな。マーロウのこの成熟、作品が発表された1939年では、リアリティがあるものだったのか、そのへんが気になってしまう。1939年の33歳がこんなにカッコ良かったら、世界はどんどん幼稚化している、という仮説を立てられそうである。

マーロウと執事の対話がいつも小気味よく、これは村上春樹そのものだな、と思った。村上春樹が訳してるから当たり前だけれど。この作品のなかから、村上春樹がチャンドラーから学んだものをいくつも拾い集めることができるだろう。

冨田恵一 『ナイトフライ: 録音芸術の作法と鑑賞法』

 

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

 

現代日本のポップ・ミュージック界を代表するプロデューサーのひとり、冨田恵一によるドナルド・フェイゲンの『Nightfly』の分析であり、批評、そして愛の表明。すごい名著。読みながら分析対象である『Nightfly』はもちろん、Steely Danのアルバムを聴き直していたが驚くべき数の気づきを与えてくれる、というか、自分は音楽のなにを聴いていたのか、という反省を促す内容。それは逆に言えば、プロフェッショナルはなにを聴いているのか、という話でもあろう。このアルバム収録の「I.G.Y.」のリズムがレゲエをベースにしていること、「The Goodbye Look」はサンバのリズムであることなど「そんなこと気づきもしなかった!」と衝撃を受けつつ、そうしたワールド・ミュージック的なイディオムが取り入れられつつも、全然、その原型を彷彿とさせないところがドナルド・フェイゲンのマジックなのかも、とも思う。

70年代的な制作手法の完成形として『Aja』があり、70年代と80年代的な手法の過渡期・迷いがある時期に『Gaucho』が、そして80年代的な手法の完成形として『Nightfly』が位置づけられる、というストーリーも明快。なのだが、本書において個人的に一番グッとくるポイントは、基本的にサウンドから推測される制作手法や、データや記録に基づいた客観的な記述によって分析が実施されているなかに、著者の音楽プロデューサー(というか、音楽業界にいる人)としての実地体験からくる判断、そして「どうして、この曲のこの部分でめちゃくちゃ俺は感動してしまうのか(大意)」の自己分析が含まれている点である。この主客が統合具合が、本書の「強度」(このタームは本書で頻出。作品の統一感、完成度を示す具合を指し示している)を生んでいる。

Nightfly [12 inch Analog]

Nightfly [12 inch Analog]

 

 

 

子母澤寛 『味覚極楽』

 

味覚極楽 (中公文庫BIBLIO)

味覚極楽 (中公文庫BIBLIO)

 

子母澤寛は昭和に活躍した作家で、本書は著者が東京日日新聞(今の毎日新聞社)の若手記者だった頃(昭和2年ごろ)にあちこちの名士に食べ物について聞いて回って書いた記事を、戦後(昭和30年ごろ)に改めて文章を直し、当時の回想を書き加えたもの。伊丹十三の愛読書だったというのだが、さすがの面白さ。冒頭から『美味しんぼ』の元ネタが飛び出してくる(シジミの粒の形を揃える、とか、箸の先を全然汚さないでご飯を食べる、とか)。

取材対象が東京在住の人なので、自然話題も当時の東京の食文化が中心となっているのだが、出てくる店名には今現在も営業を続けている大老舗も見られる(虎屋や千疋屋の主人は取材対象として登場。また森下にあった伊せ喜も名前だけ出てきて、これは何年か前に店じまいしてしまったのだけれど懐かしくなった)。基本は「どこのなにが美味い」、「どこのアレが好きだ」という話が続くのだけれども、東京の食文化の歴史をたどるようで大変興味深い内容である。震災(関東大震災のことです)のあとで、ずいぶんお店も変わっちゃった、とかね。東京の食文化には、おそらくそういう大規模な更新が何度かあるんだろうな、とか思う。次は東京オリンピックか?

個人的な関心から目を引いたのは、千疋屋の主人が「星ヶ岡茶寮の主人が、いつも一番良い果物を選んで帰っていく。あの目利きぶりはすごい」と褒めている点、別な人も「星ヶ岡茶寮は、果物だけはいつも最高に美味い」と褒めている。へー、魯山人ってそういう嗅覚の持ち主だったんだ、と思って面白かった。

また、複数の人が「ご飯は冷めたほうが美味い」と言っている点。現代においてこんなことを言う人、めったにいないと思うのだが、土井善晴先生が『おいしいもののまわり』という本(大名著)のなかで「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」と書いているのとつながって読めた。

これは推測なのだけれど、アツアツごはんを尊ぶのは、かつては野蛮なもの、田舎じみた文化圏で見られたものだったのではないか(本書のなかでも、どっかの田舎出身の人が「ご飯はアツアツが良い」と言ってたりするのだ)。冷やご飯からアツアツへ、という「大富豪」でいうところの「革命」的価値転換はどのようにして発生したのか、このあたりの探求は今後の課題とさせていただきたい。