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文化的消費活動の日記

ウィリアム・フィネガン 『バーバリアンデイズ: あるサーファーの人生哲学』

 長いあいだ、サーフィンに憧れを抱き続けているのだが、いまだサーフボードに触ったことすらない。思えば、大学を卒業して初めて勤めた会社は、海とは無縁の多摩センターにあったのだけれど、そこにも熱狂的なサーファーがいた。しかも複数。冬でも小麦色の肌をしていて、自分より一回り以上年上の人でも、ずっと引き締まったカラダを維持していた。カッコ良かったですね。毎週末、海に出てる、って。まるで「普段は金融機関の人間として働いているが、それは世を忍ぶ仮の姿で……」という感じがあった。

「俺も一度連れて行ってくださいよ」と言ったこともあるけれど、一度も実現しないまま、その会社は辞めてしまった。今もサーフィンやってみたいな、と思っているのだが、絶望的に運動神経が悪いわたしを心配する家族が「絶対死ぬから辞めてくれ」と言われている。車もあるし、ビーチまで1時間ぐらいの距離に住んでいるから、いつでもはじめられるのだけれど。

そういうサーフィン、サーファーへの憧れが本書を手に取らせたのだろう。2016年にピューリッツァー賞の「伝記・自叙伝部門」を受賞した、あるサーファーの半生記(ピューリッツァー賞の「伝記・自叙伝部門」がどのぐらいの権威か全然わからないのだが)。600ページ弱の大著。著者は「ニューヨーカー」誌に寄稿しているジャーナリスト。

雑に要約すれば「幼少の頃に両親の都合で居住したハワイでサーフィンにのめり込み、若い頃にはオーストラリアから東南アジアのサーフスポットを開拓する冒険旅行・自分探しのジャーニーに出かけ、若い頃にプラプラしていた経験を生かして、ジャーナリストとして生計を建てられるようになって、オトナになる」的なストーリー。

本書の面白さの核になっているのは、非サーファーからすれば十分サーフィン狂に見えるであろう著者も、その道においてはまだまだ全然「狂って」なくて、むしろ、もっとヤバいヤツがたくさんいる。そのなかで著者は、完全に狂うこともできずに、むしろ、狂わずにどう人生と折り合いをつけていくのか、という点にある。その結論。これが、結婚して子供ができたら自然とサーフィンも回数が減っちゃいました、的な平凡な着地点であるのが「……」かもしれないが。

サーフィンの専門用語がいろいろでてきて読めない外国語を読んでいるみたいな部分も多いのだが、それが異文化に触れる読書になってまた面白くもある。わたしのサーファーへの憧れは本書を読み終えてもなお維持されているし、なんなら、本書を通過することによって、わたしはすでに気持ちだけサーファーになってしまっているのかもしれない。

バーバリアンデイズ

 

(なぜか書籍の詳細情報のリンクが貼れないため、書影のみ)

尹雄大 『やわらかな言葉と体のレッスン』

 

やわらかな言葉と体のレッスン

やわらかな言葉と体のレッスン

 

優れた哲学の本とは、読みながら、一緒に考えることができる本、そして読み終えたあとに、その本から「出発」できる本だと思う。本書は、そのような「哲学の本」のように読むことができるエッセイ。哲学という狭いカテゴリーに収まる本ではないし、体系的な知識を授けてくれるものではないけれど。正しさ(正義)が希求されすぎる(息苦しい)社会や、エヴィデンスが重要視される社会への違和感は、千葉雅也や東浩紀の最近の著作とも共有されているようにも思うのだが、難しい言葉や概念は一切用いられていない。日常的な言葉によって、言葉、知識からカラダの感覚へと脳のシステムを切り替えられるよう。

『プロジェクト・マネジャーが知るべき97のこと』

 

プロジェクト・マネジャーが知るべき97のこと

プロジェクト・マネジャーが知るべき97のこと

 

平成最後の夏から秋は月150時間残業が3ヶ月続くというブラック居酒屋の店長みたいな働き方を強いられ、それはハッキリ言って会社に大部分問題があったのだが、自分もプロジェクト・マネージャー(という肩書きで、コーディング、テストケースの作成からテストの打鍵までなんでもやった。必要な要員がまったくアサインされてこなかったため)として多少反省すべき点があったかも知れない、と思っていた、ので、本書を手にとった。実践的な知識体系についての本ではないのだが「PM」というチームをまとめ、動かす立場にある人の心の持ちようとかについて、気づきをもたらす本だと思う。

千葉雅也 『思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集』

 

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集

 

読了。思弁的実在論について全然わかってないので、内容がほとんどわかっていない。メイヤスーの「世界の原理があるとき突然、大きく変わってしまう」、あるいは「第四世界(今までの歴史のなかで不遇な形で死んだ人がみんな蘇る)」という話が出てくるのだが、なにそれ!? という感じで、意味わかんないけど、気になりはじめている。『動きすぎてはいけない』のサブテクストとして読まれるべきなのかもしれないが、あんまり理解も深まらず……。精神分析をめぐる松本卓也とのパートはまあまあ普通に読めた。まだ自分に本書を噛み砕く素地ができていない感じ。

マルセル・プルースト 『失われた時を求めて 第3篇 ゲルマントの方』

失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 1 (集英社文庫)

失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 1 (集英社文庫)

 
失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方 2 (集英社文庫)

 

前巻までは結構すんなりと進めた『失われた時を求めて』の再読プロジェクトであったが、仕事が忙しくて大ブレーキ。かつ、この第3篇「ゲルマントの方」は最初の難関だと思う。社交界の話とか、刊行当初はもしかしたらリアルタイムなゴシップ性すらあって価値があったのかもしれないが(ドレフュス事件の話とかさ)、21世紀の俺にはなんのことやらだし、クドクドしすぎ。なんだかわからない部分は、読み飛ばしちゃって良いんじゃないか、って思う。そう、なんだかわからない部分を読み飛ばしても、面白い部分はやってくるから……。

冒頭から語り手たち一家が、パリにあるゲルマント公爵の邸宅の一角に住まいを移していることを示される。で、語り手は自分たち一家に住まいを貸しているゲルマント公爵の妻である公爵夫人に恋をしてしまい(めぞん一刻か? ちがうか!?)、毎日、散歩にでかけ(めちゃくちゃ病弱なのに)、ゲルマント公爵夫人の馬車を待ち構えてて挨拶する、という習慣を身に付けてしまう。狂人的なストーキング。お母ちゃんからも「あんた、そういうの迷惑だから止めてよ」と言われる始末。

それでも、なんとかゲルマント公爵夫人(ちなみに、ゲルマント大公、ゲルマント大公夫人というキャラクターもこの巻では重要人物としてでてくるので、なおさらややこしい。公爵夫人はイケてる、大公夫人はそんなでもない、としっかり位置づけておく必要がある)とコンタクトを取りたい語り手は、親戚である友人、サン=ルーに「ちょっと、俺のこと紹介してよ」って頼みに行っては、サン=ルーは、サン=ルーで身分が卑しい自分の愛人との付き合いで忙しかったりして、そもそも軍人だから忙しくて、語り手に便宜を計れない。

そういうグタグタしたなかでまず面白いのは、5巻でいうならフランソワーズやジュピヤンといったド脇役。日本人の役者で言うなら、フランソワーズ = 渡辺えり、ジュピヤンは、そうだな、光石研あたりの「個性派俳優」を割り当てたくなる人物のエピソードはおかしい。そして、なんと言ってもシャルリュス男爵の強烈な印象である。彼には6巻の終わりでも救われることであろう。

そんなこんなで、5巻はキツいのだが、6巻は最初からドラマが盛り上がって最高。なにせ、語り手を溺愛していた、なおかつ、強烈なキャラクターであった語り手の祖母が、なんやかんやの面白シチュエーションで死ぬ。これが面白い。そして、その悲しみが続いているであろう頃に、語り手は、第2篇の主要舞台であるバルベックで出会ったステルマリア夫人が、どうやら成田離婚、あるいはIZAM・吉川ひなののスピード離婚みたいなことになって、良い感じで男を探してるらしいゾ、という情報を手に入れる。で、なんだかんだで、そのバツイチ夫人をデートに誘おうと画策する。

そこで現れるのが、アルベルチーヌという第2篇で「ABC」で言うところのAすら許してくれなかった女である。これ、マジで驚くね。なんの前触れもなく「え、お前!?」という感じで出てくるから。でさ、そのアルベルチーヌがだよ、バルベックではAすらできなかったのに、なんか、Aはおろか、スルスルとBまでさせてくれるわけ。このくだり、マジで最高。ホントね、5巻のウザい社交界の話とかどうでも良いですよ。そのどうでもいい話をひたすら読まされて、最高に童貞クサい「え、コイツ、ホントにアルベルチーヌだよな、あ、俺と会ってないときにいろいろあったんだろな、それって……」みたいな述懐がある。これが珠玉。キモ珠玉。

でも、最悪(最高)なのは、語り手が、もうAを拒絶されてたときよりもナイーヴじゃなくなってるわけ。過去に好きだったオンナはBまでさせてくれたけど、もう気持ちは、バツイチの、エロそうなオンナ、ステルマリア夫人に行っちゃってる。っていうか、アルベルチーヌとか、そんなに価値ないよ、だって、ステルマリア夫人のほうが……ってなっている。これだよね……。この人間に対する評価の変動、価値の変動がこの『失われた時を求めて』という作品の大河ドラマ性を形成しているのだ。そして、もうひとつのドラマ構成要素である、妄想と幻滅、という運動。ステルマリア夫人への思いが悶々と高まっていくなかで、あっさりと「ごめん、デートの話なんだけど、ちょっと都合悪いわ」っていう便りが来て、語り手の妄想には終止符が打たれる。この突然の断絶が最高に良いんだ。

これ以降、6巻の地獄。なんだかんだでゲルマント公爵夫人のサロンにお呼ばれするようになった語り手だが、すでにゲルマント公爵夫人 → ステルマリア夫人と心が移っているから、まぁ、才女であるらしいゲルマント公爵夫人と会話できても「賢者モード」状態なわけだ。そこでまたクドクドとした社交界の様子が詳述される。これはツラい。キモ面白い部分を通過してしまった俺には、小説中の小休止にしか思えない。ゲルマント家とか他の貴族の血筋の話とか、どうでも良いんだよ。

そんななか面白いのはこのクドクドした部分の時制の曖昧さであって(これは訳註でも言及されている)。ゲルマント公爵主催のパーティーに初めてお呼ばれするところから、その後、ちょいちょい呼ばれるようになったんだよね、みたいな振り返りがあったりする。時系列的には、初めてゲルマント公爵主催のパーティーに行く晩、同日に、シャルリュス男爵の家に行く予定が立っている、のだが、最初のゲルマント公爵主催のパーティー → その後ちょいちょいゲルマント公爵主催のパーティーに呼ばれてます → 曖昧な時系列の話 → 最初のゲルマント公爵主催のパーティーのあとのシャルリュス男爵の家に行く、という、行ったり来たりな時系列になっている。この時系列の曖昧さは、プルーストが意図して組み込んだものかわからないのだが「え!?」となる部分。

そして「え!?」の先に待っているのが、シャルリュス男爵の強烈なキャラクターなのだから、プルーストはこのキャラクターを一種のカンフル剤として使っていたようにしか思えない。既刊で触れられているように、男色家キャラである、この人物は。その振る舞いは、まぁ、今日で言うならば、ハラスメントによって、弱者を自分の思いのままにしようとする人そのものなんだよね。語り手は、ある種の鈍感力によって、その牙から逃れるのだが……。

6巻末では再びスワンが登場。しかし、どうやら病気にかかっているらしく……で「ゲルマントの方」は終了。ウンザリさせられながら、ちゃんと読ませる構造になっているのが、この小説のスゴいところなのかも……。

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村上春樹 『村上ソングズ』

 

村上ソングズ (村上春樹翻訳ライブラリー)

村上ソングズ (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

村上春樹のラジオ番組がはじまったことをきっかけにしてなのか、近所の本屋に置かれていたので本書の存在を知った。村上春樹の訳詞とともに届けられる音楽エッセイ。このところ、家でまとまった量のストーリーだとかロジカルな文章を読むのが難しい日々が続いていたので、こういう本は良い。紹介されているのは半分以上は知らない曲で、音楽的な出会いも発生した。直訳調とでもいえる歌詞には、村上春樹の翻訳におけるスタンスも垣間見れる。

ところで村上春樹のラジオだけれど、今のところ全2回どちらも聴き逃さず聴けている。初回は休日出勤の帰りに車を運転しながら。第2回は、防災用に買ったソニーのラジオで。ラジオのスピーカーで聴くラジオ、良いですよ。

ローレンス・M・プリンチーぺ 『錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」』

 

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

 

ヒロ・ヒライさん監修によるbibliotheca hermetica叢書シリーズの最新刊を読了。『錬金術の秘密』はヒライさん自らによる翻訳。平明でリーダブルな訳文は、さすがのお仕事。著者のプリンチーぺは科学史の権威で、邦訳は新書サイズの『科学革命』がある(これも名著)。本書では、古代ギリシャから現代(!)まで、錬金術がどのように営まれ、そしてそれは社会的にどのように扱われてきたのかを辿るものとなっている。あくまで、著者の視線は当時どういう意味があったのか、であって、今それらがどういう意味があるのか、ではない。そこには現代化学につながる先駆的な発見を称揚するような価値付けは存在しない。

プリンチーぺは、イカサマ師だとか、不老不死の妙薬を求めている、といった「通俗的錬金術のイメージ」を上書きする。西洋の錬金術師たちには、不老不死を求める者はひとりもいなかった(中国での錬金術的な営みとの混同が存在している)し、錬金術師たちは、文字通りの「金銀を錬成しようとした人々」ばかりではない(錬金術師たちのなかには、金銀の錬成、つまりクリソペアに否定的な人々もいた)。金銀を錬成しない錬金術師とは……? という疑問が沸くところだが、こうした混乱を避けるために著者は、現代の化学にもつながる錬金術師たちの営みを「キミア chimia」という当時の綴りをもって再定義している。

個人的に本書のなかで一番興味を引いた部分は、古くはディオクレティアヌス(3世紀の人物だ)の時代から、為政者たちによって、錬金術が「貨幣価値を乱す可能性があるもの」(つまりは通貨の信用を乱すもの)として危険視されていた、ということで。錬金術の本のなかに経済学的な視点が投げ込まれるのも本書の魅力のひとつといって良いと思う。

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