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文化的消費活動の日記

柳澤健 『完本 1976年のアントニオ猪木』

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

 

ミュンヘン五輪でふたつの金メダルを獲得したウィリエム・ルスカ戦。もはや歴史上の人物といっても過言ではないボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリカシアス・クレイ)戦。韓国人プロレスラー、パク・ソンナン戦。そしてパキスタン最強の男、アクラム・ペールワン戦。1976年にアントニオ猪木が闘ったこれらの「極めて異常な4試合」を鍵にしたスポーツジャーナリズム。

昨年、モハメド・アリが亡くなった際にも「世紀の凡戦」として酷評された一戦の再放送がおこなわれたが、当然、本書の中心となっているのも、この一戦である。「『プロレスこそ世界最強』を標榜する猪木の理想と情熱が、このカードを実現させた」というのが、これまで語られてきたプロレスの「正史」であろう。そこを本書は「そもそも、なぜ猪木が、その『プロレスこそ世界最強』を標榜しなくてはならなかったのか」という問いまで立ち帰ろうとする。

その動機が「ライヴァルであったジャイアント馬場との関係性・確執」というところに置かれているのは驚くべき点ではない。力道山のもとでプロレスをはじめた両者のプロレス観は真っ向に対立した。「ショーとしてのプロレス」を体現するジャイアント馬場、「リアルファイトを目指す」アントニオ猪木というふたりのプロレス観の違いは、日本のプロレスの「正史」の枠組みのなかにすっぽりと収まるものだ。

「正史」的にはもともとのフィロソフィーが違うから、ふたりは対立したのが正解だろう。しかし、本書では、リング外におけるいろんな政治的な問題・権力抗争によって、なかば猪木というレスラーがプロレス界で生き抜けなくなったから「猪木のリアル路線」が誕生した、という歴史の逆読みがおこなわれる。ここが本書の目新しい部分、というか。黒い歴史にも立ち入りつつも、複雑な日本のプロレスの黎明期をかなり細かく書くことで、その逆読みのストーリーを読ませるものとしている。

「プロレスはショー」というプロレス・ファン的には「興ざめの一言」な視点で物事を語り、猪木に批判的に迫ろうとしているように見える。しかし「1976年のアントニオ猪木は、あらゆるものを破壊しつつ暴走した。猪木は狂気の中にいたのだ」と言いつつも、その「破壊」がのちの総合格闘技を作るきっかけとなった、という評価に繋げており「破壊から創造へ」という予定調和的なストーリーに収まっている。

のだが、本書の後半「韓国のプロレス史」や「パキスタンのプロレス史」を「これは一体だれを主人公とした本だったのか?」と疑問を投げかけたくなるほど詳述することで(途中でほとんど大木金太郎の本かよ、ってなる部分がある)、「リアル路線」を発明したのちの猪木が破壊したものの重みが伝わってくるのが良かった。

結局のところ、ひたすら「アントニオ猪木マジックリアリズム」を語ろうとした一冊なのだな、と。暴走する猪木の様子はガルシア=マルケスの『族長の秋』を彷彿とさせる。あと「舌出し失神KOは猪木の芝居」という記述が、「えっ、そうなの」と一番驚かされた。