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文化的消費活動の日記

菊地成孔 『聴き飽きない人々: 〈ロックとフォークのない20世紀〉対談集完全版』

聴き飽きない人々

聴き飽きない人々

 

フランクフルト学派の本を読み終えて「そういえば、菊地成孔アドルノについて言及している本があったよな」と思い出して本書を注文していた。2007年にでた本なので、とっくに絶版、中古でしか手に入らないようなのだが「これはそろそろ熟していそうだぞ、読み頃にちがいない」という予感が的中。今読んでも、というか、サブスクリプションサービスによってあらゆる音源が、ほぼ無限に聴取可能になった現代において、本書の有効性は増している、とも言えよう。大変面白かった。

本書の元になっているのは

というディスクガイド。このディスクガイドのためにおこなわれた対談(2005年)と新たな対談(アフリカをテーマにしたもの)が収録されている。いずれもすでに10年以上の月日が対談から経過しているわけだが、すでに低音重視のサウンド・メイキングというトレンド(といっても顕著なのはUSのR&Bという領域にほぼ限定されている、と言っても良いのだが)に言及されており、菊地成孔がもつ時代の読解力に改めて感心させられた。

本書において「(アフロ・ポップ以外)80年代は永遠にダメ(再評価されない)」という結論めいたものが提出されているのだが、これは果たしてどうか。ファッションについては、ダブルのジャケットのスーツを着た若者を溜池山王で見てしまってから、80年代後半から90年代前半ぐらいの感じがマジで復権してきているんだろうなと(仕事で原宿をうろつくことが多く、ユース層の髪型とか見ててもそう)思う*1。本書の主張がこれから風化するとしたら「永遠にダメではなかった」という点においてかもしれない。

なお、全体的にPC配慮、というか自主規制的なガードが今より薄くて「今これを言ってても、表に出ないだろな」という発言がチラホラ載ってる。懐古的であるが、対談芸人としての菊地成孔の面白さはこの頃がピークだったのかも。生の菊地成孔のMC(つまりはオフレコ)の面白さがまだ生きた状態で掲載されている、というか。

*1:なお、菊地成孔はディケイド5年ズレ説を提唱しているので、YMO(1978-83年が活動期間)は70年代のカルチャーということになる。なので再評価されない80年代のものではない

慎改康之 『フーコーの言説: 〈自分自身〉であり続けないために』

 

フーコーの言説 (筑摩選書)

フーコーの言説 (筑摩選書)

 

本のタイトルどおり。フーコー研究・翻訳の第一人者がフーコーの言説を丁寧に読み解く……のだが、すみません、わたしにはこれは難しかった。インターネットで評判を検索したら「わかりやすい」、「明晰だ」という良い評判ばかり見つかり、自分が残念に思えて仕方なかったが、この本、読者が相当に「現代思想慣れ」していなければ、難しくないですか。わかる部分もあるのだが、わからない部分が多い。「思考の全貌」が本書によって明るみに出される、と帯にはあるのだが、これも本当か。フーコーの言説を丁寧に読むことで、フーコーの思考の存在論的なコアの部分を明らかにしている、というのが正確なところなのでは。これを「わかりやすい概説書」として紹介するのはどうかと思う。ちょうどこないだフランクフルト学派の本を紹介したときにも同じようなことを思ったが(こっちはわたしにもわかった)。

とりあえず、わかったのは初期のフーコーは、掴まえようとすると逃げてしまうサムシングを追いかけようとしていた、けれども「見えている部分と見えていない部分が物事にはあって、その見えていない部分を追いかけようとするとスルリと逃げちゃう」というような本質へのアクセス不可能性、みたいなもの自体が歴史的に構成されたものなんだよ、という指摘にたどり着く。そこから『監獄の誕生』、『性の歴史』へ……とフーコー自身が過去の自分から遠くへ遠くへと行こうとするプロセスがあったのだ、というぐらい。これすらも自分のわかっていなさの表明にすぎないのかもしれない。難しいなぁ。もうちょっと別なフーコー入門を読んでみるか……?

『伊丹十三: 人と物8』

https://www.instagram.com/p/BwKCxC9jXLt/

無印良品が編集している伊丹十三の本。去年、伊丹十三記念館で購入したもの。

www.muji.com

ほかではMUJI BOOKSか無印の通販で購入できるらしい。11篇のエッセイや伊丹十三によるイラストなどが収録されていて、ファンにとっては、というか、わたしにとっては全部馴染みのあるものを再度目にしたわけだけれど、エッセイから部分的に抜き出して、アフォリズムのように見せているページ、これが良かった。エッセンシャルな感じがあって。超コンパクトなのだが、岩波の『伊丹十三選集』よりも良いプロダクトかも。

ヒロ・ヒライ(監修) 『ルネサンス・バロックのブックガイド: 印刷革命から魔術・錬金術までのの知のコスモス』

 

ルネサンスバロック時代を取り扱った研究書をおもに紹介しているブックガイド。自分も執筆陣に加わっている。読みながら思い出したのは中学3年生ぐらいに買った洋楽ロックの名盤紹介ムックのこと。わたしは実家にいるあいだそのムックをずーっと大切に読んでいて「あ、こういうバンドもいるのか、聴いてみたいなぁ」とか「これは気になるなぁ」とか気持ちを高め続けていたのだった。

当時はCDを自由に買える身分でもなかったので興味と関心だけが先走ることになったのだが、この本もそういう役割を担ってくれると嬉しい、と執筆者のひとりとして思う。紹介されている本のなかでは、すでに絶版で入手困難なものもあるのだが、だからこそ高まる気持ち、刺激される欲望、というのもあるだろう。トイレに置いて毎日読む、みたいなそういう使い方が良いんじゃないか。

greenfunding.jp

さて、本書の刊行にあたってはプロモーションのためにクラウド・ファンディングが行われた。目標金額の30万円を大幅に上回り、最終的に200万円以上の支援が集まっている。これについて、ずっと気になっていることを書いておきたい。クラウド・ファンディングが盛り上がり、大成功に終わったことは喜ばしい。ただ、そこで集められた資金がなにに使われているのか(今時点で)不明確なのはいかがなものか、と思っている。

クラウド・ファウンディングのページには

この支援金は、『ルネサンスバロックのブックガイド』を広めるための販促費として使用させていただきます。まだまだ多くの人に本書を広めたい、そして復刊費用にも一部を充当

という記載があるが、どういう販促を実施したのか、復刊費用とはどのように使われているのかの説明が不足しているように思われる。収支を全部明らかにせよ、とまでは言わないけれど、なににお金を使っているのか出資者に対する説明責任はあるのでは? リターンに対する費用が実は大きいから大したことはできない、であれば、そう説明すれば良い。なにも説明なし、という状態がスッキリしない。

また、刊行記念のトークイベントが実施されたなら、どのような催しだったのか活動報告のページに報告があって良いと思うのだが*1、とくにそうした動きもないし。監修のヒライさんがFBやTwitterで情報を上げているのは見ているけれど、出版社はなにを? 「盛り上がってよかったですね」と一過性のお祭りで終わらせるのであれば、それで良いんですが、それじゃ、なんかもったいない気がするし、「良書を次世代にも伝えたい」と本当に思っているのであれば、継続したアプローチが必要なのでは、と思うのだった。

*1:工作舎のサイトにはレポートがあるとヒライさんから連絡をいただいた。ヒロ・ヒライさん×山本貴光さんのトークイベント/工作舎

『日本の夜の公共圏: スナック研究序説』

 

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

 

法学、行政学政治学、文学などさまざまな分野から集まった研究者たちによる「スナック研究」の論文集。以前に編著者のひとりである谷口功一のインタヴュー記事かなにかをネットで読んで気になっていたのだが、ちょっとこれは期待ハズレだったかも。「スナック研究序説」だからこんなものなのか……。スナック研究と題しながら正面を切ってスナックと向き合っている論文が少ない。

たとえば、「スナックにいくとヒューマンスキルがあがる」みたいな言説に対して、国学儒学の思想の中にも同じ考えが見いだせる……(本居宣長の名前がでてきたりする)という論文。スナックから本居宣長へ、という意外な跳躍に最初驚きこそすれ、読んでいて「無理やりつなげてるだけじゃない?」と思ってしまう。Amazonのレヴューにもすでに同じことが書かれているが、集められた研究者が書ける範囲でスナックと自分の関心領域をつなげてひねり出してるだけじゃないのか、と。

都築響一が登壇した座談会が一番面白い。というか「こういうのが読みたいんだよ」というニーズにマッチする。スナック未経験者であるわたしからすれば、あの外から中が伺いしれない空間、カラオケの音が外に漏れ出したりするあの空間には、なにがあるのか、どういう空気が流れているのかが気になるのであって、本居宣長が、とか永井荷風が、とかじゃないんだよ、と。

松浦弥太郎 『松浦弥太郎の仕事術』

 

松浦弥太郎の仕事術 (朝日文庫)

松浦弥太郎の仕事術 (朝日文庫)

 

松浦弥太郎が自分の仕事のスタイルについて記した本。徹底した自己管理、自分のペースを乱さない(無理をしない)こと、勉強を続けること、そして一緒に働く相手に対してのリスペクトを持ち続けること……といったことが書かれている。過去にほかの著者の本を読んで全力の普通さというキーワードが思い浮かんだことがある。本書も同様で、大いなる平凡さ偉大なる凡庸さ、のようなものが透徹されているようだ。

刺激的なところはなにもない。むしろ、過度な刺激を避けることに大いなる平凡さの哲学がある。それゆえに若いギラギラした人にはまったくおすすめできない本だ。そういう人が読んでも退屈なだけ。でも、ある程度年齢を重ねた人には、コレ、なんじゃないか。

本書を記したときの著者の年齢は40代なかば。「若いときには無理をしたこともあったけれど……」という振り返りがいくつも挿入されている。これに甚く共感させられた。わたしもいま34歳で、無理が効かなくなっている自覚があるし、「30代のプロフェッショナル」というつもりで生活している。これから急激に成長することに対しても諦めがついているし、子供もいるからなるべくリスクも負いたくない。

言うなれば、冒険から引退したあとのライフステージをどうするか、そのための指針が本書には詰まっている。それは緊張感がないダラけたものではない。ストイックに普通である、というある種の矛盾を抱えつつ、それで気持ちよく過ごせてしまうことを今のわたしは理解している。

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スティーヴン・エリック・ブロナー 『フランクフルト学派と批判理論: 〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』

 

フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平

フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平

 

アメリカの批判理論研究者によるフランクフルト学派と批判理論の概説書。邦訳のタイトルは概説書感・入門書感が薄いのだが、原書はオクスフォードの Very Short Introduction シリーズの一冊。このシリーズの本についてはこのブログでも何度か取り上げていて本当に良い本が多いのだけれども、これも素晴らしかった。

ややこしいなにが書かれているのかわからないでお馴染みのフランクフルト学派界隈をコンパクトに紹介し、かつ、批判も加えたうえで、「批判理論はもはや意味ないのか?」という問いに対して「むしろ、こういう方向なら批判理論の立ち位置は有効である」という現代的な読み直しまで示唆する。その方向性は、千葉雅也や東浩紀らが提示する現代的な哲学のあり方と共鳴しているように見える。

超絶ザックリ言ってしまえば、批判理論の人たちのやり口というのは概ね「全体主義とかファシズムとか嫌だよ」であって、全体ではなく個を重視する人たち、というか、たとえば会社でも経済でも良いんだけど、社会のシステムのなかで個人がその意思を剥奪されているような状態を問題視する。画一化とかダメだ、とか。

ホルクハイマーやアドルノによる文化産業批判もこの延長である。本来芸術というのは個人から生まれてきて、なにがしかのインパクトを与えるもの、鑑賞者の気持ちが強く揺れ動いてミメーシスが起きるようなサムシングを与えるものであったはず。なのに、文化産業(ここで批判されるのは、映画とかポピュラー音楽とか)は見た目や雰囲気だけ芸術の真似をして、鑑賞者を気持ちよくさせるだけ、触れれば触れるほどバカになっちゃうよ、と警鐘を鳴らしているわけ。

この文化産業批判の的外れ感というか、時代遅れ感ってハンパないっすよね、とは本書でも痛烈に批判されているとおり(だって、ボブ・ディランノーベル文学賞が贈られる時代ですよ)。このほかにも鋭い批判はいくつも本書には含まれていて、名著と名高い(?)『啓蒙の弁証法』も「捨てて良い本じゃないけど、歴史分析とか全然やってないよね。正直雰囲気で物事を言ってるよね」ぐらいに評価している。

この方向だと批判理論は、難しい物言いで「嫌だ嫌だ」って言ってるだけの人たち、ということになってしまう。「システムとかダメだ!」とか言ってもシステムなしには世の中がありえないし、アドルノみたいに語りえないもの、というかなにかを別な言葉で表現したときにそのなにかから言葉への移行によってこぼれ落ちてしまうものにこだわり続けても仕方ないじゃん、と。

だから、批判理論の「個」へのこだわり、というかまなざしは「見えているがいまだ承認されていないもの、痛々しくはあるが治療可能なもの、抑圧されてはいるが力になる(エンパワリング)ものを突きとめるほうがよい」と著者は言う。これによって「リアルな衝突のうちに互いに共通する領域を見つけ出し、そこを基点にしてグローバルにコスモポリタンに変容された啓蒙の規範に粘り強く繋げていく」のだ、と。

「自由に浮動する知識人」が全体性を遠くから眺めて「嫌だ嫌だ」と言ってるだけじゃなくて、自分とは違う立場との交渉や共通点を見つけ出すためにその視線を役立てていこうじゃないか。ここに議論がたどり着くまでの鮮やかな流れ。これがスゴい。ぶっちゃけコンパクトにまとまりすぎて、ひょっとして初学者はついていけない部分があるかもしれない、とも思ったりするのだが良い本。いろいろ読んだ上で思考を整理するのに良いのかもしれない。初学者向けには細見和之の『フランクフルト学派』のほうが適切か。

フランクフルト学派の本は、つい先日「もう二度と読み返さねーだろ」と思ってハーバーマスベンヤミンを残して全部処分してしまったのだが、こういう本に触れるとわずかながらに残った未練もキレイに成仏しそうな気がする。

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