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文化的消費活動の日記

外山滋比古 『思考の整理学』

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

英文学者が記した勉強法・執筆法・知的整理法についてのエッセイ。日本の教育は「グライダー型人間(自分の力では飛べない)」を育てるばっかりで「飛行機型人間(自分の力で飛べる)」を育ててこなかった、という反省を踏まえて、自身の経験に基づくさまざまな方法を紹介している。超有名な本なのでいまさら詳しく紹介する必要もないであろう。長いこと「How To」系の本だと思いこんでいて、敬して遠ざけてきた本だったのだが、読んでみたらエッセイとして面白い。元になった本は1983年に出版されている。40年近く前の本のなかで「これからはコンピューターの時代。記憶力の価値はダダ下がりするに違いないので、創造的な人間を目指そう(大意)」とか書かれていて、その先駆的な物言いに恐れ入る、とともに、40年近く前からコンピューターによるマンパワーの置換が言われてるんだから、今言われてる「AIが人間を駆逐する」みたいなこともホントにおきないんじゃないの、と思ってしまう。シンギュラリティ、ホントに来るのかよ、的な。

中原昌也 『パートタイム・デスライフ』

 

パートタイム・デスライフ

パートタイム・デスライフ

 

中原昌也の新刊。最近の著作は全然チェックできていなかったのだが、やっぱり最高だよな、と。脈絡のない悪夢のような作品が、連続性がないようでありそうな形で続いていく連作短編集で不穏さがすさまじい。笑わせようとしているのか、単なる文字稼ぎなのか、コピペみたいに同じ文章が利用されている箇所があったりして、それが絶妙なタイミングでくるものだから匠の技のようでもある。すごい。読む現代アート、とでも言うような。いかようにも解釈されうるが、それらをまったく無化してしまうような佇まい。このダルさ、このディストピア模様を平成末期のこの社会からも感じる。

青山真治小山田圭吾椹木野衣が巻末に文章を寄せているが、まともに面白かったのは小山田圭吾のみ。残る2名は中原昌也パスティーシュ、というか、中原昌也に感染して「規定の文字数を埋めた」という感じだが、スベっている。小山田の談話のなかでは「アート・リンゼイ中原昌也を「先生」と読んでいる」という事実が明らかにされ、そのエピソード最高、と思った。

相良敦子 『お母さんの「敏感期」: モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる』

 

将棋棋士藤井聡太が大きな話題になったことで再度脚光を浴びているらしい「モンテッソーリ教育」に関する本。著者は日本におけるモンテッソーリ教育の第一人者、ということである。子供には「敏感期」というのがあって、その時期の子供は、秩序にこだわったり、感覚や運動能力の方面がグッとセンシティヴになったりするんだけれど、そこを適切に、見守るように接してあげると、将来、自律/自立ができるコになるよ、という主旨。そのための方針や遊ばせ方などを紹介している。

タイトルの『お母さんの「敏感期」』とは、子供の敏感期に接するお母さんもまた敏感期、ということなのだが、いわゆるひとつのお父さんであるところのわたしにとっては若干居心地が悪い本である。本書にはモンテッソーリ教育に出会って気づきを得たお母さんの体験談が多数乗っているのだが、そこでの父親の役割の空気感が半端ないし、なかには「(モンテッソーリ教育にであって)子供との接し方が変わったな」と上からコメントしているお父さんもいる。これは素直に反面教師としたい。っていうか、俺も「敏感期」になりたいよ、と。

「敏感期を見逃してしまうと大変なことになるのでは……」と不安を煽られる人もいると思うし、実際本書のなかでそういう声がお母さんから上がっている、とある。著者は言う。「脳科学とかの見地からも、敏感期を見逃した部分の遅れはあとから取り戻せるので大丈夫!」と。ここにめちゃくちゃなマッチポンプを感じる。けれども、読んで良かった本だったな、と。お母さんたちからの声に共感できてしまったりして。

子供をよく観察すること。これがモンテッソーリ教育のエッセンスのひとつであるのだが、観察の過程で目撃した子供の表情とか、それを受けての親の感情とか、わかるし、もっとわかりたい、という気分になる。ドゥルーズ的な管理の形態……とか考えたりもするんだけれど。

高橋源一郎 『ジョン・レノン対火星人』

 

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

 

はじめて高橋源一郎の小説を読んだ。きっかけはアダム・タカハシさん『三田文学』にこの小説に関する論考を寄せていたこと(「私が考えるところに、私は存在しない 高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』論」)。掲載からだいぶ時間が経ってしまったが、こちらも小説を一読したあとに併せて読み終えた。

ジョン・レノン対火星人』の原型である小説『すばらしい日本の戦争』は、群像新人文学賞の最終候補に残った際、審査員の一人である川村二郎から「妄想と情報の氾濫」と酷評されたという。その感想はとてもよくわかる。「ジョン・レノン対火星人」というタイトルのココロも解き明かされることがないし、正直これはどう読むものなのだろう、と困惑してしまう。

同じく審査員のひとりであった瀬戸内晴美(aka 瀬戸内寂聴)だけが(よくわかんないんだけど)「なぜか私はこの小説から物哀しいリリシズムを感じた」と褒めていたらしいのだが、わたしも似たような気持ちであって、瀬戸内寂聴スゴいな、わかってらっしゃる、と思った。

高橋源一郎って頭いいんだな」みたいなバカみたいな感想をいだいてしまうぐらい、何書いてあるのかよくわかんない。古いSFやポストモダン文学の翻訳を読んでいるような「実験感」を懐古的に味わえたりするし、実際、そういうものとして処理することもできるんだろうな、とも思う。ただ、実験にビックリして腰を抜かすほど、さすがにウブではなかったりもし、要するに「これは俺には手が余るわ」という感覚のなかで確信的に抱くのが「これ、青春小説ではあるよね」という思いでしかない。

三田文学 2017年 05 月号 [雑誌]

三田文学 2017年 05 月号 [雑誌]

 

アダムさんの論考はその手に余る小説を読解するためのヒントを提示してくれる。超絶的に雑な要約をすれば、

  • 書いてあることの「隠された意味」を読み解こうとしても「妄想と情報の氾濫」に見えてしまうから、別な読み方をする必要がある
  • デカルト的な、思考によって導かれる「私」の存在の確実性が、確実じゃないんじゃないか、っていうか分裂してるんじゃないか
  • そういう精神のあり方が哲学的なプロットを借用しながら提示されている

みたいなことである(ようだ)。あと村上春樹の『風の歌を聴け』が同型の物語として語られている。これはよくわかる。このような読解を受けて、わたしなりに別な、あえてめちゃくちゃベタな読み方を提示するならば「ずいぶん、横浜の地名がでてくる小説だなぁ」という感想を絞り出すしかない。

土井善晴 『土井善晴の素材のレシピ』

 

土井善晴の素材のレシピ

土井善晴の素材のレシピ

 

人気の料理研究家、というよりかは近年は料理の思想家*1に近い活躍をされている土井善晴先生の最新レシピ本。元になっているのはテレビ朝日系列で放送されている「おかずのクッキング」と同名のテキストで紹介されたレシピ*2

既刊のレシピ本と重複があるものの「レシピ本は道具だ」という本書の帯にあるコピーをそのまま受け取れば、書きぶりが変われば、内容が同じでも違う道具になりうるのがレシピ本の面白いところだと言える。

素材ごとに見開きで4種類ずつの料理が紹介され、ページの右上にはその素材の旬がいつなのか記号で示されている。料理はどれもがシンプル。写真をみてもそのシンプルさが伝わってくる。『おいしいもののまわり』*3の一節が思い出される。

この頃は素材の大切さを物語ることが少なくなったように思う。素材そのものの話よりも、「どうやってつくるの?」という話ばかり。気がつけば、私たちは自然からずいぶん離れてしまっているのかもしれない。

大変ポップな作りの本だが、このポリシーはしっかりと貫かれている。簡単は手抜きじゃない。またもや帯の繰り返しだが、素材からはじめること、そして、素材をいかにいじらずに食べるか。今度は『一汁一菜でよいという提案』から引いてみよう。

見た目を良くしようと意識して手数を増やせば、素材はまずくなります。それは、場違いなひと手間です。毎日の料理は食材に手を掛けないで、素材をそのままいただけばよいのです。

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sekibang.blogspot.com

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*1:……という強い語感は似合わないか

*2:なお、当番組はもともと土井先生の父である土井勝がメインキャストをつとめていた

*3:この本も「おかずのクッキング」に連載されたエッセイをまとめたものだ

三浦哲哉 『食べたくなる本』

 

食べたくなる本

食べたくなる本

 

料理好き・料理本好きの映画研究者による「料理本批評」。わたしも「料理をしないシェフ」を自称するぐらいに料理本が好きなので「こういうものをいつか書きたかったのかもしれない」と思ったし、すでに我が家の本棚にある書籍もいくつかあるなかで、本書で複数回言及されている(本書の主人公のひとりと言っても良い)丸元淑生の著作には新しく興味を開拓されてしまった。『食べたくなる本』は「読みたくなる本」でもある。

著者の映画研究者としての仕事は知らない。映画好きに「どういう人なの?」と訊ねたところ、BBCのサイトで公開されている「最高の外国語映画(ここではつまり英語以外の映画)100」の投票結果を教えてもらった。著者はこの投票にも参加していて、友人曰く「これを見ると、どんな趣味かわかるよ」とのこと。

www.bbc.com

Tetsuya Miura – Aoyama Gakuin University (Japan)    
1.    Gertrud (Carl Theodor Dreyer, 1964)
2.    L’Argent (Robert Bresson, 1983)
3.    Goodbye, South, Goodbye (Hou Hsiao-hsien, 1996)
4.    A Story from Chikamatsu (Kenji Mizoguchi, 1954)
5.    Late Spring (Yasujirô Ozu, 1949)
6.    Breathless (Jean-Luc Godard, 1960)
7.    Taste of Cherry (Abbas Kiarostami, 1997)
8.    Typhoon Club (Shinji Sômai, 1985)
9.    Cure (Kiyoshi Kurosawa, 1997)
10.  Happy Hour (Ryûsuke Hamaguchi, 2015)

 印象というか感想なのだけれども蓮實重彦から直接教育された世代によって再生産された蓮實重彦の影響を感じる趣味」というか。本書でも「蓮實重彦の本で出会ったたけれど、いまだ見れていない映画監督の名前」がいくつも登場する。映画批評らしいなぁ、と思うのは、食べ物を目の前にして、それを口に含み、飲み下す、その一連の動的な流れを文章に落とし込むときの筆致。まるで映像を文章に変換するとき、そのものであって、ここに映画批評家として筋力を感じるのだった。個人的にはサンドイッチを食べる文章に惹かれて、その翌日、思わず朝食にサンドイッチを作ってしまったほどだ。

https://www.instagram.com/p/BvPwE5IH5Ov/

#料理をしないシェフ 今読んでいる『食べたくなる本』にサンドイッチについて書かれていたので、今朝は冷蔵庫にあったベーコンとレタスでサンドイッチを作った。シンプルだが旨い。

著者は福島県出身であり、Twitterで共感を表明していた千葉雅也(栃木県出身)と同様に共感する部分が多々あった(著者が郡山市出身、わたしは福島市出身という違いはあれど)。とくに心打たれたのはステーキ宮というステーキレストランチェーンの名称で、その文字列が目に入った瞬間に福島市内の国道4号線上にあった店舗(母が勤めている会社の事務所の近くにあった)の風景がフラッシュバックした。たぶんわたしは一度しか行ったことがないのだが、なぜか強烈に覚えている。

www.google.com

調べたところによるとこのステーキ宮は本社が栃木県にある企業によって運営されている。戯れに「ステーキ宮 国道4号線」というキーワードでGoogle Mapを検索したところ、東京都から青森県まで繋がるこの長い道路上に寄生するかのようにステーキ宮が点在していることがわかり感動した。

地方の国道沿いの風景の平準化(どこにいっても似たような店が並んでいる)が批判的なトーンで語られることがあるが、その平準化された風景は、地方在住者にとっては固有のものであり、思い出たりうる。そして、著者とわたしのステーキ宮の思い出が4号線上で(おそらく高い確率で)つながるように、それぞれ違ったステーキ宮の風景がだれかと共有されることに強いロマンを感じさせる。同じ店の思い出を共有しているのではなく、違う店の思い出が共有されることが重要なのだ。

また、本書の魅力のひとつをなしているのは、著者の立ち位置だとも思う。高級なもの、手の混んだものも好きだけれど、ジャンクなものも好き、という「どちらでもある」という態度。たとえば、その日の朝に水揚げされたばかりの文字通りの鮮魚をさばいて料理することもある一方で、プリングルスサワークリームオニオンの魔術的な旨さに触れる。

この感覚、あえて今っぽい言葉で言うなら、わかりみが深い。どちらでもあるからこそ、極端な方向に振れない。ゆえに可能となる冷静な分析と適切なツッコミ。本書の最後に位置する放射能と食について書かれた文章においてもその態度が貫かれていて、いまの気分にあっている。

マルセル・プルースト 『失われた時を求めて 第4篇 ソドムとゴモラ』

 

失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 
失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラ 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラ 2 (集英社文庫)

 

この長い小説もようやく折り返し。1年で全部読めてしまうかな、と高をくくっていたのだが2年がかりになりそうだ。プルーストの生前に出版されたのはこの第4篇までであり、あとは死後出版となる。『失われた時を求めて』の核心部のひとつである同性愛の主題は、これまでも折に触れて姿を表していたが、ここで本格的に表立ってくる。

強烈なキャラクターであり、社交界のグダグダした記述から何度も読者を救ってくれるであろう(私はこの人がいなかったらこの小説を読み抜けられない、と思う)シャルリュス男爵は冒頭から大活躍。語り手の目にこれまでの不可解なものとして映ってきたシャルリュスの行動が「なるほど、そういうことだったのね……」と腹落ちするシーンがある。ネタバレになってしまうが、シャルリュスが男をナンパして(相手は語り手が住んでる屋敷にいるジュピヤンというチョッキ縫いの職人。これもなかなかの良いキャラ)「行為」を済ませてしまうところの一部始終をのぞき見てしまうのである。目撃されている2人の様子が大仰な比喩によってものすごい濃度で記述されるのはこの巻の読みどころのひとつであろう。

「ソドムとゴモラ」の1/3ぐらいはシャルリュスの話で費やされている印象がある。第4篇を、2つに分割すると前半は、ゲルマント大公夫人のパーティー、後半は第2篇の後半の舞台であるバルベックが2度目の舞台となる。後半でもシャルリュスは大活躍し、今度はモレルというヴァイオリン弾きを恋人にしようとしてアレコレし、終いには決闘騒ぎまで起こしてしまう。これを老人性の癇癪とするのか、はたまた純な恋愛感情とするのか判断はわかれるところだが、前半でのシャルリュスの扱いは「語り手はシャルリュスが同性愛者だと知っているが、周りは知らない」という立場であるのに対して、後半は「あの人はコッチの人だよね……?」と薄々感づかれている。ここにも社交界での位置づけの変化、評価の変動が現れていると言えるだろう。

シャルリュスが「ソドム」を担うキャラクターだとしたら、「ゴモラ」は……ここで登場するのがアルベルチーヌである。第2篇で初めて登場した彼女は、第3篇でも登場していた。そこでの彼女は語り手と肉体関係を持つのだが「一度モノにしてしまうと途端に熱が冷めてしまう」という語り手の悪い部分が出てしまい、雑に扱われるセフレみたいな酷い立場に甘んじている。第4篇(舞台はバルベックに移っている)でも当初はそういう可哀想な役どころなのだが、ちょっと様子が違う。時折語り手に冷たいし、影でコソコソやっているみたいである。

「そりゃあ、語り手に雑に扱われているんだから浮気ぐらい……」と思うのだが、その相手が「男性じゃなくて女性なんじゃないか……?」という疑惑が語り手の胸に去来してからがもう大変。嫉妬の嵐が吹き荒れ、アルベルチーヌへの情熱が再燃する、という「人としてどうなんですか、それは」という恋愛模様が描かれる。完全にプリンスの名曲「Bambi」の世界だな、と。

ちなみに「アルベルチーヌがレズビアンバイセクシュアルなんじゃないか」という疑惑は、第4篇の最後に「おーい! ココとソコ繋がるんかーい!」という伏線の回収につながっており、大きな読みどころを作るのだから侮れない。そして、次の話まで読者の気持ちをつなげるフックにもなる。こういうところに節目節目でちゃんと読む気にさせてくれるプルーストの上手さあるのかなぁ。基本はダラダラしているのだが……。

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