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文化的消費活動の日記

蓮實重彦 『凡庸さについてお話させていただきます』

 

凡庸さについてお話させていただきます

凡庸さについてお話させていただきます

 

著者による30年以上前の社会時評や講演についてまとめた本。蓮實重彦にも社会についてあの口調で饒舌に語るモードがあったとは、と熱心なフォロワーでもなんでもなかった自分などは驚いてしまうし、たしかに古い本だが内容は熟成されていま「読みごろ」になっている。『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』にも通ずる「まだまだ果実味が残ってる」感じ。過去と現代と比較して楽しめるものもあれば、そのまま現代に通ずる指摘もあり、なかでも「情報化社会ではなぜ食事から快楽が失われたのだろうか」という一品は、その最もたるモノ。

ここで筆者は情報化社会によって、逸脱する楽しみが抑圧されている、と指摘する。「情報化社会とやらの退屈さは啓蒙が教育を抑圧し、快楽を忘れさせてしまうことに存する」(P. 105)。パリのレストランアメリカ人の同伴者がコーヒーを飲みながらビーフステーキを「楽しむ」がごとき享楽が、フランス的な流儀からありえないものとして否定され抑圧される。この傾向は現代においてより加速し、人々を自閉症へと誘うようだ。

千葉雅也 『デッドライン』

 

デッドライン

デッドライン

  • 作者:千葉 雅也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

「新潮」に掲載されたことから周囲でも「面白い!」と話題であったのだが、結局読み逃していた作品。読み逃しているあいだに野間文芸新人賞受賞。いや、すごい。これが小説第一作とはまったく思えない筆致、完成された文体。とくに「知子はもしかして僕のことをちょっと好きだったりするのだろうかと思う。というか、思ってみる」(P. 72)、この「というか」で主人公のモードが即座に切り替わっていく感じが新鮮だし、これまでに読んだ著者の思想に関する文章とも繋がっていく(今年は3冊も読んでいたんだなぁ)。

ゲイの若者の生、という生々しい/なまめかしい主題においては、ハッテン場のくだりとかがにわかに想像しがたく、読者であるわたしの生にはなかったものへの想像力を到達させてくれる。そして、もうひとつ、主人公が修論を書くプロセスという主題についても、どのようにして書いていくのか、その苦悶がドラマ化されている(書くことに関する小説でもあるこの主題は、メタフィクション的である)。東京という都市についての描写も良かったなあ。

千葉雅也の著作に関するエントリー 

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カルロス・フエンテス 『アルテミオ・クルスの死』

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫 赤 794-2)

(なんかいつもの商品リンクが貼れない)

メキシコの作家、カルロス・フエンテスの『アルテミオ・クルスの死』がまさかの岩波文庫入りで喜び勇んで買い求めた。いや〜、10年越しぐらいでやっと読めた。なんかガルシア=マルケスの『族長の秋』かなんかに本作の登場人物への言及があり、ずーっと読みたくても絶版だから読めない、という作品だった。待っているあいだにフエンテスが亡くなったり、ほかの作品の翻訳が進んだりしていて、ぶっちゃけ情熱は冷めていたとも言えなくもないのだが。

しかしながら、本作をフエンテスの代表作と位置づけるむきに賛同するにやぶさかではない……。メキシコ革命をタフに生き抜き、財を成し、メキシコの政治にまで影響力を持つようになった男、アルテミオ・クルスが、死ぬ前にあれこれみる走馬灯的な作品である。もうそれだけ。いろいろややこしい手法を使っていて、アルテミオ・クルスの生にメキシコの国の歴史、国への批評が投射されているのだが、例によって、ラテンアメリカ文学の典型をなぞるように屈強で貪欲でエネルギッシュな男の一代記として読んでしまって良いのだと思う。

そう、これがフエンテスの本質なのであって、いろいろめんどくさいことをやらずにメキシコ革命をベースに池波正太郎とか司馬遼太郎とか山本周五郎みたいな小説を書きまくっていたほうが良かったのではないか、と思わなくもない。『おいぼれグリンゴ』みたいなややこしくないやつ。

辻山良雄 『本屋、はじめました: 新刊書店Title開業の記録』

 

本屋、はじめました: 新刊書店Title開業の記録

本屋、はじめました: 新刊書店Title開業の記録

 

ここ半年ほど片道2時間ほどかけて通勤する日々が続いている。18時に現場を出たら家につくのは20時。息子はそろそろ風呂にはいる時間である。

一時的な現場、とはいえ、そういうのにいい加減うんざりして、いつまで俺はこんな通勤生活を続けるのか、という気持ちになり、そうだ、店でもやるしかない、これだけ本が好きなんだから、本屋でもやるか、ちょうどこないだ住んでる町からほとんど書店が消滅しちゃったし、この町にカルチャーを取り戻すんだ、やるぞ、俺はみたいな衝動で買い込んだ本。荻窪にある新刊書店Titleの店主がサラリーマン時代から開業までを振り返っている。

本屋ってどういうビジネスなの、っていうところがわかって参考になったし、大変そうだな、サラリーマンのほうが気楽で良いかもな、といきなり気持ちが折れそうな本でもある。このTitleという書店には行ったことがないし、中央線沿線の生活圏にもほとんど足を踏み入れることがないからこれからもいくことはなさそう。だけれども、近所にこういう本屋があったら良いのにな、と思う。

自分にとって、本屋って、そういう感覚なんだよな、わざわざ行く感じじゃなくて。すでに欲しいものがわかってたら、Amazonで買っちゃうし。本屋という存在のあり方についても考えさせられる。マイルドな筆致で書いてあるのだが「松浦弥太郎とか高山みなみとか置いといたらセレクトショップ感がとりあえず整っちゃってそういうのってヤダ」とインスタントなセレクトショップ感を軽くdisってるところとか面白い。

ロラン・バルト 『零度のエクリチュール』

 

零度のエクリチュール 新版

零度のエクリチュール 新版

 

世界がロラン・バルトの気分だ、という直観から読みはじめたがなんだかわからない本。訳者が解説するにこの頃のバルトは、自分で使ってる概念もよく定まっておらず、なんかフワッとしたなかで「エクリチュール」と言っている。その「エクリチュール」がなんなのか、ハッキリとはわからない。言語とも文体とも違う、作者が選びうる書きぶり、それってなに? そのふんわりこそ、世界がロラン・バルトを求めるべき所以なのであって……。もう少し読んでみます。

細馬宏通 『うたのしくみ』

 

うたのしくみ

うたのしくみ

 

長らく読みそびれていた細馬宏通による音楽評論の本を読む。楽譜や専門用語をほとんど使わずに、ポピュラー・ミュージックの楽曲を分析したWeb連載と、CDのライナーノーツや単発の評論が収録されている。ジョアン・ジルベルトの「サンバがサンバであるからには」の回はリアルタイムで読んだと思う。先日、この記事(↓)を読んで思い出して買い求めた。

note.mu

本書における楽曲分析は、音楽理論の方向からでなく、音楽における歌(歌詞とメロディ)そして伴奏によって身体がどうなってしまうのか、どうしてこの音楽は気持ちいいのか、という身体感覚の分析からアプローチされている。同時に社会的な文脈も振り返られるのだが、そこで蘇るのも歴史のうえでの、過去のリスナーの身振り、手振り、リアクションなのであって、身体の歴史の本とでも言えるのかも知れない。語られる音楽だけでなく、本書における日本語の音声学的記述を読むときに、読者の身体にもまたインパクトがある。日本語という自明すぎるもの・身近すぎるものを改めて観察する楽しさ、声を出さずに、声帯や唇や舌の動きを確かめたときの、その驚き。