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文化的消費活動の日記

『グロービスMBA クリティカル・シンキング』

 

社会人向けの大学院のテキスト。クリティカル・シンキング = 「ビジネス・パーソンに必要な、現場で役立つ思考力」だそうで。 論理的思考力(状況を的確に把握し、問題の本質を見つけ出す)、思考プロセスを伝える力、他者との意見の違いを見分ける力が身につく、らしい。内容はコンサルティング・ファームの新人研修とかででてきそうな話。いかに偏見や誤解を排除し、漏れなくダブりなく思考を展開していくかのケース・スタディとその手法について説明されている。ピラミッド・ストラクチャーとかフレームワーク思考とか。こういう思考ツールは使ってナンボ、のところがあるので読んだだけじゃわからない。同類の本はいくつもあると思うので、もっとライトなものでも良いかもしれないし、じっくりと取り組むにはこのぐらい冗長でも良い気がした。

今更こういう本を読みはじめたのも成長意欲・学習意欲が高い若手社員を集めて勉強会でもやるか、と思い立ったからなのだった。あまり本を読み慣れていない人もいると思うので、丁寧にレジュメを切って内容の理解を促し、クリティカル・シンキングの実践トレーニング(プレゼン付で)をしてもらおうかな、と思っている。試行展開なのでうまくいくか全然わからないけれども。「成長したいです」って口だけの人も多いなかで結構な人数の若い衆が集ってくれたから、ワイワイとやっていきたい気持ち。

石川美子 『ロラン・バルト: 言語を愛し恐れつづけた批評家』

 

「そういえば、フランス現代思想に興味をもったのも、鷲田清一の『モードの迷宮』のなかで触れられたロラン・バルトだったかもしれないなー(たぶん高校2年生ぐらい)」とか最近思い出していたのだけれども、バルトの著作はただの一冊も読んだことがないのだった。

で、最近になって千葉雅也とかロザリンド・クラウスの本とかで、バルトの名前に触れる機会があり「そろそろ、ちゃんと読んでみる時期なのかもしれない……」と、まずは入門書的なものを。 バルトの生涯を追いながら、その思想・テクスト(あるいはテクストの生み出し方)の変遷について解説した本。コンパクトにまとまっていてありがたい。

一言で言うならば、ロラン・バルトの多動力。これが「いまの気分」的な感じだったのだよな。文学、音楽、演劇、絵画、ファッション……さまざまなものを取り上げてて、じゃあ、専門ってなんなの、バルトってなんの人なの、って感じなのだが、このふわっとした感じ、定まらない/定めない感じが、今っぽい。育成環境も、貧窮と裕福を行ったり来たりしてたみたいで、そういう引き裂かれた感じ、が影響してんのかな〜、と思ったりする。

これから著作の方も読み進めていきたい。プルーストの再読も再開したい気持ちに。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『戦争は女の顔をしていない』

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

2015年のノーベル文学賞受賞者の第一著作。対独戦に従軍した/パルチザンに参加したソ連の女性たちに取材し、その語りを記録したもの。著者によってストーリーとして構成されているわけではなく、解釈や意味づけなどもおこなわれていない。カテゴリーごとの配置が最小限行われているだけで(内容的に相応しい言葉かわからないが)豊かな語りの並びに出会うことになる。岸政彦による『断片的なものの社会学』が想起されるが、筆者の存在感、控えめさはずっと希薄だ。

「戦争は女の顔をしていない」。本書のタイトルが意味するのは「戦争は女性向けのものではない(女性にとって男性よりも過酷なものだ)」というだけでなく「戦争の歴史/記憶/語りから、女の存在が隠蔽/抑圧されている」ということでもある。むしろ、本書でまずはじめに語られるのは「正しい歴史」から排除される女性の存在である。この問題は、従軍体験を語る女性自らが自らの語りを記録から排除しようとしたことから、より複雑である。男によってだけでなく、女からも「女の顔」が隠されている。

ノーベル文学賞、といえば、日本ではすぐ「村上春樹」の話になるけれど、その関連でいえばオウム真理教による無差別テロを取材した『アンダーグラウンド』に近い性格を持つように思う。埋もれた記憶を掘り起こすこと。その作業が苦痛を生むこともあれば、語られることで癒しや解放を生むこともある。ノンフィクション作家の受賞は彼女が史上初なのだが、正直これまで読んだノーベル文学賞作家のなかで(大して数を読んでないけども)もっとも感銘を受けた一冊かも。単に「いまの気分だった」ということかもしれないけれど。

 

宮内悠介 『超動く家にて: 宮内悠介短編集』

 

超動く家にて 宮内悠介短編集 (創元日本SF叢書)
 

こないだギブスンなんて読んでみたのも、本書に収録されている「クローム再襲撃」(村上春樹の文体で「クローム襲撃」をリライトした作品。言わずもがな「クローム襲撃」+「パン屋再襲撃」である)を読んでみたくなったからでもあった。現代日本のSF業界を牽引する作家*1が、思いつきベースで書き進めたネタ小説、バカ小説を集めた一冊である。会話文がボケとツッコミに分かれて描かれるノリが含まれた作品は、まさに同人誌ノリ、という感じで(実際に同人誌に掲載された作品も)、そこはもうめちゃくちゃ苦手なんだけど「宇宙ステーションで野球盤をやる」みたいなハチャメチャな設定でも、ちゃんとした話を成立させててすげーな、と。フィクションの創作行為に、ある一定の形式のなかでやるゲーム性みたいなものさえ感じなくもない。それはまるでコード/モードのルールのなかでどれだけイケているプレイができるか競うような現代ジャズのごとく。

「クローム再襲撃」は、春樹文体で書き直されたことで、原作のちょっと都会的なブルース性、というか、ちょっと冴えない感じ(だけどそこが乗り遅れた青春っぽい感じ!)のエッセンスがより明らかになるような感じがして良かった。

*1:という理解で正しいのか全然わからない

ウィリアム・ギブスン 『クローム襲撃』

 

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

 

こないだTwitterで『JM』(キアヌ・リーヴス主演の映画。この映画については、この名文をぜひとも参照されたい)の話をしていて「原作読んでなかったな」と思い。1986年に発表された短編集で、サイバーパンク的な作品が多く収録されている。2019年に34歳にして初めてギブスンを読む、みたいなところからして色々間違ってしまっているのだが、隔世の感があるなぁ……と微妙な気持ちになるところが多数。

日本のヤクザや地名が色々とでてきて、Japan as Number One を感じさせるし、なんか情報技術的なものの描き方にも噴飯ものの記述が多い。たとえば、表題作の「クローム襲撃」に関しても、ハッキング(とその対策)にハードウェアが登場してて、うーん……となる。今なら絶対ありえないよな、と。コンピューターの世界をヴァーチャルな立体的空間のように表現したその想像力はすごいし、そういう世界観って(SFをほとんど経由してこなかった)自分にも自然と刷り込まれているところはある。とはいえ「ヘッドセットを被ってネットワークに侵入して、システムを破壊するプログラムを起動させる」みたいな記述に、ナイナイ(笑)、って微笑をしてしまう。

かつての「ハッカー文化」みたいなもの(アングラ、サブカル、反社会的。コーラ飲んで、ピザ食って、ハッパ吸って、コード書く、みたいな)とギブスンのサイバーな雰囲気って地続きだったのに、いま現実のほうが漂白されちゃってる感じも大きくて。IT、いま全然自由で反体制、みたいな感じもないじゃん。どっちかっというと(いわゆる)意識高い系、あるいは体育会系ともいえる。サイバーエージェントみたいな企業が「サイバー」を冠している時点で、現実にフィクションが負けちゃってる感じがある。

デジデリウス・エラスムス 『痴愚神礼讃』

 

ひさしぶりにルネサンス関連の本を読んだ気がするなあ。腐敗した教会批判を痛烈におこない宗教改革のきっかけを作ったエラスムスの代表作。ラテン語原典からの訳。訳者はエラスムスの専門家ではなかったのに、2004年に慶応大学出版会からでてる「本邦初のラテン語原典訳」のクオリティがヤバすぎたため、だれに頼まれたわけでもなく使命感をもって訳業にとりかかったという。エラい先生だ……。

人間界のすべてを支配しているという痴愚神が自分自身を讃える演説をする、という内容。愚かしさを司る女神がなぜ人間界のすべてを支配しているのか、といえば、人間のふるまいが全部愚かしいからであって、まず、やり玉にあがるのは男女の関係の愚かしさ。批判、風刺、であるとともにそこには人間らしさのようなものも描写されているのであって、これはルネサンス的だなぁ、と思った。神学者によるわけのわからん議論をdisってる箇所なんか(ラテン語の文法を知ってるとより)すごく笑えた。

柳澤健 『1984年のUWF』

 

1984年のUWF

1984年のUWF

 

結局、この著者の本って「プロレスのドキュメント」というよりかは「プロレスという枠組みの思想史」なんじゃなかろうか、と思う。過去の雑誌記事、関係者への取材をもとに「リアルファイトを見せる(と言いながら、実のところプロレスだった)UWF」の思想を描こうとする。選手・団体のフロント 、表と裏の人物が多数登場する群像劇ではあ。、本書のなかで大きな筋を作る人物を整理すると、以下の通り。

  • カール・ゴッチ(ショーとしてのプロレスを否定し、技術を見せるレスリングを目指したが人気がなく挫折。技術を買われて新日本プロレスのトレーナーに)
  • 藤原喜明(ゴッチの指導を受け、関節技の技術を習得するも花がないのでずっと前座レスラー)
  • 佐山聡(天才。タイガーマスク。プロレスに憧れたが、ショーとしてのプロレスに不満を抱き、自分で考えた新しい格闘技を世に出そうと奔走)

そして、前田日明である。本書における前田の評価は後述。

ストーリー的には、新日本プロレスにおける金をめぐるイザコザ(アントニオ猪木の事業の失敗)で揉めて独立した団体、UWFが、ゴッチの思想を受け継いだ「リアルな格闘技」を標榜して活動をはじめるが全然上手く行かない。そこに天才、佐山が登場。一躍脚光を浴びることになるが、佐山はもともと自分のやりたいことをやれればそれでいいので、団体経営が良くなくなったときに決裂、独自の道に進むことになる。残されたUWF残党は、佐山を追い出した側であるにも関わらず、佐山が考えたことを真似して短命なムーヴメントを作ろうとした……、みたいな感じで整理できるだろうか。

本書における前田の評価は徹底的に低い。体がデカく柔軟性があるが、観客を魅了するような試合ができない典型的な「しょっぱいレスラー」であり、本人にはオリジナリティある思想は一切なく、カリスマ的な人気を得たのも佐山のアイデアをパクっただけ、という扱いであり、挙句の果てに自分の人気や実力を勘違いして最終的には団体の分裂・崩壊を招く悪の元凶として描かれる。ホンモノは天才、佐山。前田はニセモノ。この対比が本書を通底しているのであるが、いささかバランスが悪い。佐山の天才についてはわかった、けれど、天才過ぎて全然理解できない部分、そこに本書は足を踏み入れていない。

結論的には、UWF総合格闘技のブームを生み出す架け橋になったのだ、というところは『1976年のアントニオ猪木』と同じ。そしてUWFが生まれたきっかけも本を正せば、アントン・ハイセルの失敗なのだからアントニオ猪木こそが総合格闘技の源流論的な一冊とも言える。わたし自身は総合格闘技にほぼ興味がないので、この結論が一番どうでもいいかもしれない。

「プロレス = 結末が決まったショー」、「総合格闘技 = スポーツと並べられる真剣勝負」という対比や、本書でも重要な点として語られる「プロレスを真剣勝負だと思ってみている人たちの目線」みたいなものも含めて、どうでも良い(UWFもリアルタイムじゃないし……)。ただ、妬み嫉みや金で揉めてるところの人間模様がとにかく面白い本だし、あと天才でありながら佐山の影響範囲の狭さ(アントニオ猪木と比較しての)ってなんなんだろうな、って考えてしまった。猪木と佐山にどんな違いがあったのか、このへんもう少し掘ってみたい。

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