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文化的消費活動の日記

高橋源一郎 『ジョン・レノン対火星人』

 

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

 

はじめて高橋源一郎の小説を読んだ。きっかけはアダム・タカハシさん『三田文学』にこの小説に関する論考を寄せていたこと(「私が考えるところに、私は存在しない 高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』論」)。掲載からだいぶ時間が経ってしまったが、こちらも小説を一読したあとに併せて読み終えた。

ジョン・レノン対火星人』の原型である小説『すばらしい日本の戦争』は、群像新人文学賞の最終候補に残った際、審査員の一人である川村二郎から「妄想と情報の氾濫」と酷評されたという。その感想はとてもよくわかる。「ジョン・レノン対火星人」というタイトルのココロも解き明かされることがないし、正直これはどう読むものなのだろう、と困惑してしまう。

同じく審査員のひとりであった瀬戸内晴美(aka 瀬戸内寂聴)だけが(よくわかんないんだけど)「なぜか私はこの小説から物哀しいリリシズムを感じた」と褒めていたらしいのだが、わたしも似たような気持ちであって、瀬戸内寂聴スゴいな、わかってらっしゃる、と思った。

高橋源一郎って頭いいんだな」みたいなバカみたいな感想をいだいてしまうぐらい、何書いてあるのかよくわかんない。古いSFやポストモダン文学の翻訳を読んでいるような「実験感」を懐古的に味わえたりするし、実際、そういうものとして処理することもできるんだろうな、とも思う。ただ、実験にビックリして腰を抜かすほど、さすがにウブではなかったりもし、要するに「これは俺には手が余るわ」という感覚のなかで確信的に抱くのが「これ、青春小説ではあるよね」という思いでしかない。

三田文学 2017年 05 月号 [雑誌]

三田文学 2017年 05 月号 [雑誌]

 

アダムさんの論考はその手に余る小説を読解するためのヒントを提示してくれる。超絶的に雑な要約をすれば、

  • 書いてあることの「隠された意味」を読み解こうとしても「妄想と情報の氾濫」に見えてしまうから、別な読み方をする必要がある
  • デカルト的な、思考によって導かれる「私」の存在の確実性が、確実じゃないんじゃないか、っていうか分裂してるんじゃないか
  • そういう精神のあり方が哲学的なプロットを借用しながら提示されている

みたいなことである(ようだ)。あと村上春樹の『風の歌を聴け』が同型の物語として語られている。これはよくわかる。このような読解を受けて、わたしなりに別な、あえてめちゃくちゃベタな読み方を提示するならば「ずいぶん、横浜の地名がでてくる小説だなぁ」という感想を絞り出すしかない。