sekibang 3.0

文化的消費活動の日記

役割について

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父親になって67日経つが、自分が「ずっと父親であり続けているわけではないこと」を早い時期から意識している。息子の世話をしてあげられるのは、休みの日か、早く帰ってきた日のとても限られた時間だけであり「パートタイムお父さん」という感覚に近い。

働いてお金を稼いでいるあいだにも、父親である属性は変わらないのだが、仕事しているあいだは「お父さん」ではなく「会社員」として見られているのであろう。そうした役割は、周りの環境や対峙している人間との関係によって変わっていく。あるときは「会社員」であり、あるときは「長い付き合いの友達」、またあるときは「夫」でもあり、「男」でもある。そうした役割のひとつとして「父親」がある。

改めて書き出すと特別なことをやっているようだが、そうではない。いろんな役割を無意識に演じ分けているのが、社会的な生活のなかでは一般的であって、さまざまな役割を忙しく演じわけていることが、自然な生活のあり方、とさえ言えるのかもしれない。

一方で、息子が生まれて以降、妻は「フルタイムお母さん」であり続けている。ひとつの役割にほぼ固定されている生活、役割の演じ分け、切り分けが生まれない生活。それは、特殊で、不自然で。そうであるがゆえに生まれてくるしんどさが強烈にあるのだろうな、という風に思う。だから「お母さん」の気分転換ってめちゃくちゃ重要だ。

そんな気づきを得たのも、仕事の都合でおよそ3週間「営業マン」の顔をして働く機会があったから。それが昨日まで続いていた。慣れない仕事をやっていて、ひどく疲れていたから、今日は一息つくために休暇をもらっていた。

昼間に銀行にいく用事があって外に出た。ついでに2時間ぐらい本屋で立ち読みをしたり、野菜ジュースの店でケール100%の青汁を飲んで、その味のあまりの土っぽさに衝撃を受けて挙動不審になったりしていた。その瞬間、自分は「平日の昼間にぷらぷらと歩いているただの人」の顔になっていた。「営業マン」からの、その「なんでもない人」の落差に、わたしはこれまでにない開放感を得ていた。

「なんでもない人、最高!」と感激しているのと同時に、これを妻にも味あわせてあげたい、という風に「夫として」思った。

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育児マンガ計画は、絵柄がまった安定していない。自分の似顔絵だけが抜群の安定感で自分で描いていて笑ってしまう。