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文化的消費活動の日記

鈴木健 『なめらかな社会とその敵: PICSY・文人民主主義・構成的社会契約論』

 

個人が意思決定と責任を負いながら生活し、モノの所有が認められるような社会において、意志の発露をおこなうものを「核」になぞらえ、所有やその核に所属する領域を定めるものを「膜」になぞらえる。こうしたモデルを既存の社会の形だとして、それを計算機のパワーをつかうことによって「網」のモデルに、なめらかにできないだろうか……という提案をおこなっているのが本書。数式や数学的な部分はまるでわからず、わかる部分だけ読んだ感じになったけれども面白い。

核や膜をなめらかにした社会、そこではたとえば意志決定が、あれか/これかではなく、あれも/これもに近い状態でありえる。意思決定にかかるエネルギー(思考量敵なもの)が圧縮され、さらには決定に伴う責任もまたそこでは圧縮されることになる。これによって、これまでにない意思決定のなめらかさ、ここではより速度をもった実行がおこなわれるかもしれない。あるいは、所有の概念が薄まることによって、マルクスが夢見たような、生産手段が共有化された社会、労働による疎外から遠く離れた社会が実現されるかもしれない。

しかし、そのような新しい社会の形(というか、そこで生きる人間のモデル自体も変容しているわけだが)を想像するだけでなく、馴染むことができるだろうか、とも思う。シェリングはその時間論において、人間の時間を過去・現在・未来へと分割するのは決断であると説いた。連続的な時間のながれが決断の瞬間に過去・現在・未来へと切断され、分節されるのである。なめらかな社会において決断の機能が変容するならば、このような時間論も見直さざるをえない。社会は汎神論的なものへと接近していく……のかもしれない。