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文化的消費活動の日記

東浩紀 『訂正可能性の哲学』

続・『観光客の哲学』的な著作。全体は大きくふたつに分かれている。前半部分では『観光客の哲学』で不十分なまま終わっていた、友敵理論、こっちにつくのか(友)あっちにつくのか(敵)、に寄らない関係性のあり方の鍵として、ヴィトゲンシュタインクリプキを用いながら訂正可能性を提示している。『観光客』でのNot友敵的な関係性の鍵には、ルソーの「憐憫」が用いられていたが、それが今読むといかにもロマンティックに感じられたのだが(その本のなかで批判的に語られたネグリ&ハートのマルチチュードとあんまり変わらないのでは、と思う)、本書の「語り直し」では「憐憫」ではエモすぎに思えたものが落ち着いて、より「観光客」的なあり方の、たまたま隣り合ってそこにいる感じ、さらには、関係性はいかように結び直せる性格をクリアに描いているように思える。

後半部分では、訂正可能性は人工知能民主主義に警鐘を鳴らすキーワードとして用いられる。本書で人工知能民主主義と名付けられた思想とは、AIによって統治され最適化された政治制度などを指す。

計算機によって膨大なデータを分析したことによって導き出された結果が驚くべき精度になっていることを、われわれは経験としてすでに知っている。それゆえ、ミスの多い人間の判断なのではなく、ビッグデータを学習したAIによってあれこれの政治的・行政的な判断をやっていけば良いんじゃないのか。AIはミスをしない! シンギュラリティ!

しかし、その訂正可能性のなさ、隙の無さこそが危険なのだ、と本書は指摘する。

たとえば、あれやこれやの要素をもつアナタ! おじさんなのにプリキュアが好きでInstagramのレコメンデーションは水着の女子でいっぱいで人殺しをするFPSのゲームが大好きなアナタはAIが分析した結果、凶悪犯罪を起こす可能性があるとわかりましたので、あらかじめ逮捕します、みたいにAIポリスに言われたとしよう。

そのような事態が起きた際、逮捕された人が一生懸命「わたしには動機がないですし……」みたいなことを弁明しようが無駄である。AIは計算した結果「そういうことになっていますんで」というだけで例外は認められない。AIを前にした人間は例外を含む人間主体ではなく単なるサンプルに過ぎない。あなたにはいま動機がなくても、計算の結果、凶悪犯罪を起こす可能性がありますんで、逮捕します。そういうことになっていますんで、そういう結果になっていますんで、で正当化されてしまう、訂正できなさの恐ろしさ。それってめっちゃディストピアじゃないですか。

という部分だけ取り出してしまうと本書の後半部分ででてくる人工知能民主主義の批判は、批判理論的なものと重なって読めてくる。第2次世界大戦中に徹底した理性によって「処理」されていったユダヤ人たちの姿と、AIによって処理されていくわれわれの姿が重なっていきもする。

もうひとつ関心を引いたのは、ごく短い言及ながらも鈴木健による分人民主主義への批判。その制度によって人間が決断や決定をせずに「なめらかに」もろもろのが決まっていく様子、それもまた計算機の発展によって実現されうるヴィジョンであるのだが、そのなめらかな良さこそが、やはり主体を奪うことになるのだ、と著者は言う。ここには、主体的な人間が決断・意思決定をするのではなく、決断・意思決定をするから人間には主体性が与えられるのだ(なめらかな状態には主体はないのだ)、という逆説がある(得意の論法、と言って良いのだろう)。

この話は『観光客』と同時期に刊行された『中動態の世界』で語らえた意志(と責任)の問題ともつなげられよう。『中動態』では、意志による決定には責任が伴う、けれども、そのように結びつけちゃって良いものかのか、本当にその決定はその決定者の責任にしちゃって良いのか、みたいなことが問題視される。自由意志の哲学史に関しては『自由意志の向こう側』のなかで、アウグスティヌスがすでに人に責任を負わせるために自由意志が要求されてきたことを指摘している、と整理されている。ここにも逆説が見出されるわけだが、話を『訂正可能性』に戻すと「本当に責任を押し付けちゃって良いのか」的な主題よりも「なめらかじゃダメ、決定をすること責任を引き受けることこそが主体」という議論はかなり大人のモードにも思える。

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