國分功一郎の『中動態の世界』のヒット(したんだよね?)以降、意思(と責任)の哲学的問題に関して関心をもつ人は多かろうと予想しているのだが、本書はそうした読者向けの本だと思う。副題にある通り、決定論(人間のふるまいはすべて◯◯によって決定されている!式の議論)をめぐる哲学史を詳細に紐解くことによって、『中動態の世界』ではモヤモヤとしたままになっていた意思と責任の問題が、古代から現代にいたるまでどのように議論され、もうここまで整理できちゃっているんだ! と理解が進む内容となっている。
書きぶりがやさしいので論述に付き合う(知的な)体力/持久力さえあれば、初学者でも読みこなせると思うのだが、個人的には細切れにしか読書時間が確保できず、しかも並行していくつも本を読む、みたいな悪癖のなかで読もうとするとどうしても完全に食いきれない本である。要するにややマッシヴにすぎるコンテンツ。というか、最近まで自由意志や因果律に関するテーマに関心をもって色々読んでたけど、アウグスティヌスとかヒュームとかを読んでたら、なんだ、これでいいじゃん、みたいな気持ちになって関心が薄れた感じもするのだった……というか「これでいいじゃん」感は本書によってより強められた気もする。とくにアウグスティヌスに言及した箇所で「自由意志概念は、人に責めと罪を負わせるためにこそ要求されてきた、という一面がある」という記述。