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文化的消費活動の日記

浅田彰 『構造と力: 記号論を超えて』

 

世の中にはさまざまな概要書・入門書の類があるけれど、大きくは、縦方向の解説と横方向の解説、というふたつに分けられると思う。前者は概念や仕組みを詳しく、丁寧に語り直し、絡んだ糸を解いていくスタイル。後者は他のものに言い換えたり、似たものを並べていって「ほら、こういうこと、わかりますよね? 同じなんですよ」と示してみせる。昨年末に文庫化された『構造と力』は、徹底して後者の本であり、刊行当時26歳の著者のセンス、フレッシュで爆速な文体には驚かされた。並べるとなぜわかるようになるのか、なぜわかった気になるのか、という課題もあろう……というか、並べたとしても、並べられたもののひとつでも分かっていない限りは、わかりようがない(なにひとつわかっていない読者にも本書を開かせるのが千葉雅也による解説だろう)わけだし、並べられたものの類似を確認したとしても、それが理解の深さを促すものではない、あくまで、そうか、みんな同じなんだ、と知るだけである。ひどい言い方をすれば「そうか、フロイトも、マルクスも、クリステヴァも、ラカンも同じことを言ってたんだ!(それだけ。だからなんだ!?)」って本として片付けることもできる。また、前近代、近代ときて中心なきポストモダンにおいて、ヘーゲルと手を切るためにアドルノではなくニーチェを、ワーグナーと手を切るためにはシェーンベルクではなくケージを、と良い、戯れに向かうことを言祝ぐ態度は、いま読むとかなり楽観的と言わざるをえない(まさに1983年の本って感じだ。その後、たとえば2000年代のポストモダン言説には、この楽観性はない)。とはいえ、だ。1983年(収録されている文章は、1981-1983年のあいだに雑誌に掲載されたものが元になっている)の時点でこの明晰な「並べ方」はすごすぎる。千葉雅也も解説のなかで執筆当時ドゥルーズ=ガタリクリステヴァが未邦訳の状態だったことに言及しているが、3章で主に取り上げられているラカンについても『エクリ』こそ(あの極悪な)邦訳はあったものの「セミネール」のシリーズは邦訳はなく、我々がいま現在アクセス可能なラカン本の一才が存在しなかった、にも関わらず、めちゃくちゃクリアにラカンのエッセンスを捉えている。この速さ(早さ)、速すぎる(早すぎる)! もちろんこの3章だけ読んでもラカンのことはなにもわからないと思うのだが、あれこれ読んできた今の俺にとってこそ、衝撃的なパートだった。