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文化的消費活動の日記

千葉雅也 『勉強の哲学: 来たるべきバカのために』

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

齢、33歳を目前にして「話題の思想書」が面白くなってきている。これはTwitterで仲良くさせていただいている淵田仁さんが激賞してきた本だった気がする。「東大・京大でいま1番読まれている本!」と書影で煽られているが、大変良い本。

なんか勉強するとなにかがわかってくるから、いろいろ細かいことに気づいてしまって、勉強する前と同じふるまいができなくなってしまう。これを本書でこれは「バカ」の状態から勉強して「ノリが悪くなっている状態」と表現される。もう「場から浮いちゃってる状態」、そうした状態におけるふるまいや思考を哲学的に捉え直していく。

感心するのは、本書における「勉強」と「哲学」という言葉が深くつながっていて、勉強について哲学的に語ることが、哲学的な営みを語ることになっている点だと思う。どちらも知的な探求であるわけだから当たり前、といえば、当たり前なんだけれども、そういえばかつては「勉強家」という肩書きを標榜していたこともあって、体感的に理解できる感じがした。

読んでいる途中に「これを読めるいまの10代は幸せだな」と思った。本書の下敷きにはフランスの現代思想があるのだけれども、ちゃんとした現代の日本語でわかりやすく、生き生きと語られている。すごい。なめらかな日本語で哲学がされている、というヴァイブスが強くて、もはや感動的。親切にも「どういう風に勉強を深めていくか」の現実生活における実践案内までついてくるから「難しい本を読めるようになりたい」、「哲学とか現代思想とかに憧れがある」という若い人には大いに参考になるであろう。

「いきなり原典的なものにぶちあたっていくんじゃなくて、入門書から読むべき」という本書の案内を読んで「すみません、フーコーとか、もうわかんねーよとか諦めちゃって」と反省したりもする。がんばろ、って素直に思って、フーコー入門読んでいくか、とやる気出してみたりしたが「そういえば、ずっとアウグスティヌスを読みたいと思ってたんだった」と思い出して、昨晩、寝る前に入門書を買っていた。「最近、20代前半までに作ってた生半可な貯金で難しい本にぶちあたる雑な傾向がでていたんだな」とかね、反省させられますよね。

川上未映子 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 

この表題作、初出が2007年、わたしが社会人になりたての頃であり、まだ「J文学」とか言ってた頃だったような気がする。当時は、ふむ、歌手上がりで、関西弁で、破天荒な感じの作品ね、それ、町田康じゃん、と思って、読む気がしなかったんだけれども、川上未映子さん、育児エッセイはすごく面白かったし、インスタも最高で、というか最高すぎて、ついに、10年ほど敬して遠ざけていた小説に手を出したのだった。律儀に芥川候補となった第1作から。

で、これ、すごい小説じゃん、って魂消ていた。メンヘラ色漂う恋愛小説、みたいに読めてしまいながらも、実にストロングスタイルの哲学の本、つまりは、私の存在とはなんぞや、ということを問いかけているみたいで。正直ですね、ナメてました、すみません、という気分に。

挙げられている哲学的な問題に対して、この本のなかで答えられているわけではないし、投げっぱなしジャーマンな荒削りスタイルではあるのだが、フレーズの強さは、まるでプラトンのようにクラシカルで。

たとえば「誰も脳なしで考えたこともあらへんくせに自分は脳とかゆうてんねん」。翻訳すれば「脳以外で考えたことがないにも関わらず、自分のコアは脳にあると誰もが思っている」。なるほど、それは確かに良い指摘、と思う。なんだかよくわからないんだけれども、これだけパワーがある処女作はすごい、ねじふせられる。ありえないことだけれども、なにも知らないころに読んでみたかった。

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『わが悲しき娼婦たちの思い出』

わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))

わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))

 

原著がでたとき(2004年)だったか翻訳がでたときだったか、ノーベル文学賞作家が川端康成の作品をモチーフに新作を書いた、って話が結構話題になったのを記憶している。評価はわかれる作品だが、やっぱり面白いよね、ガルシア=マルケスは、と思った。

ずっと独身でありつつも、風俗ばっかり行って一生を楽しんでいたじじいが「90歳になったし、いっちょ、処女でも買ってお祝いするか」とあまりにクソな思いつきをするところから始まる。老人の恋愛というテーマで言えば『コレラの時代の愛』と隣接するのだが、本書では主人公は90歳にして男性機能が衰えることない(しかもいわゆる「馬並み」である)にも関わらず、直接的な、肉体的な願望の成就がなされないまま、奇妙な形で恋、そして愛が成立する。主人公は長生きってだけであんまりパッとしないライターなのだが、この思いが溢れることによって、文筆家として一花咲かせることとなる。

この部分がなんともロマンティックである、というか、はっきり言ってバカバカしくて楽しい。結果的に、本書が作家の最後の長編(といってもほとんど中編みたいなサイズだが)となったわけだけれども『百年の孤独』による大ブレイク以降、ガルシア=マルケスってほとんど同じ本を書き続けて死んだのだな、ということが確認できる。ずっと同じことを書いている人、こういうタイプの作家、好きですね。村上春樹もそうだけど。

2017年9月に聴いた新譜

9月は営業の仕事をずっとやっていて一瞬で溶けてしまった……。旧譜ばっかり聴いていた感じ。

まっしろな気持ちで会いに行くだけ

まっしろな気持ちで会いに行くだけ

 

楽しみにしていたのはこのアルバム。新しい、生っぽい平賀さち枝の姿があらわれているようで素晴らしい内容だった。なんというか「江ノ島」のPVで撮られた、おぼこい、作られたイメージから抜け出していて。Negiccoに提供した「虹」(大名曲)のセルフカヴァも収録されている。


平賀さち枝 - 10月のひと

ダンサブル(初回限定盤A)(Blu-ray Disc付)

ダンサブル(初回限定盤A)(Blu-ray Disc付)

 

KIRINJIの最新アルバムにも参加していたRHYMESTERのアルバム、返礼するかのようにKIRINJIが一曲参加している。ノーナ・リーヴスとかRHYMESTER、ってラジオの書き起こしサイトでよく名前を見る人たち、って認識になってしまっており、なんか自分のなかでひとくくりになっちゃっているのだが、彼らのアルバムの安定したクオリティってすごいな、って思う。

シューベルト:ピアノ・ソナタ 第20番&第21番

シューベルト:ピアノ・ソナタ 第20番&第21番

 

ひさしぶりにクラシックの新譜も聴いたのだった。ツィメルマンによるシューベルト。なんか疲れたときにこの曲がはまってくる瞬間があった。

NegiccoのKaedeちゃんのソロ。スカートが全面参加。これは7インチを買った。B面のKIRINJIが鈴木亜美に提供した「それもきっとしあわせ」のカヴァが大名曲、ということに気づく。


Kaede(Negicco)「あの娘が暮らす街(まであとどれくらい?)」(作詞・作曲 澤部 渡 編曲 スカート)

ブランク

ブランク

 

渡邊琢磨の新譜も「いまの気分」だった。冨永昌敬の映画『ローリング』のサウンドトラックとも通ずる音。

以下、ディスクユニオン新宿ラテン・ブラジル館がつぶやいている新譜情報から聴いたもの。

Guris

Guris

  • アーティスト: Jovino Santos Neto & André Mehmari
  • 出版社/メーカー: Adventure Music
  • 発売日: 2017/07/21
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 

ジョヴィーノ・サントス・ネト(パスコアール系の人らしい)とアンドレ・メマーリによるデュオ。クラシックとジャズとブラジル音楽を越境しまくるたいへんなアルバム。リリカル。

O Pequeno Milagre De Cada Dia

O Pequeno Milagre De Cada Dia

 

サンパウロのピアニスト、ベンジャミン・タウブキン。中東・アフリカのルーツっぽい響きとブラジル音楽がスピリチュアル・ジャズのなかに溶け込んでいるような。

Semreceita

Semreceita

 

アントニオ・ロウレイロがプロデュース、「ミナス新世代」(これももうちょっといい感じのネーミングないのか、アルゼンチン音響派みたいな)の音にはやや食傷気味だったのだが、これはなかなか新鮮に聴けた。ちょっとカンタベリー・ミュージックみたいな感じがあって。

ミシェル・フーコー 『臨床医学の誕生』

臨床医学の誕生

臨床医学の誕生

 

18世紀末に医学は現代医学とつながる感じで発展したけれども、それはその時点でなんか目覚めみたいなものがあって、それ以前のまやかしめいた医学なんかクソ、って感じでいきなり変化したわけじゃなくて、言葉と物のあいだに新しい関係ができたからだよ、その分類思考って近代的な権力の編成とアナロジーが描けるよ……的な本なのだと思うのだが、難しくてちっとも頭に入ってこなかった……。フランスのポスト構造主義へのあこがれを抱きながら、俺はこれから老いていくのかもしれない……(まぁ、それでも全然良いですね、なんも問題なかった)。

もしも運動ができたなら

https://www.instagram.com/p/BZlS5GbB-La/

息子の機嫌が悪そうなときに「U Can’t Touch This」のPVを見せてやると画面に釘付けになりゴキゲンになる。おそらく今時点で世界でもっとも若いMCハマーのファンだろう。

子供が家にいると、父親の先輩、母親の先輩のいろんな経験を聞きたくなる。こないだは子供に基礎的な運動の習い事をさせている、という人の話を聞いた。その人のお兄さんがスポーツ関係の研究をしているそうで(大学のバレー部を監督している)「兄貴が言ってたけど、人間の反射神経って3歳までに決まるらしいんだよね」と教えてくれた。

運動の習い事か、それは良いな、俺もやらせたいな、と思った。

というのも、自分がまったく運動らしい運動ができず、学校ではずいぶんみじめな思いをしたからなのだった。告白すれば、わたしは生まれてから一度も鉄棒の逆上がりに成功したことがない。小学校の体育の授業で鉄棒があったときの記憶といえば、まわりのクラスメートがみな逆上がりに成功している横で、まったく逆上がれず、ザッ、ザッと地面を蹴り、中途半端な逆上がり未満運動を繰り返し続け、はやくこの時間が終わってほしい、と願い続けたことを強烈に覚えている。

小学校のスポーツでチームを組むときには、リーダー格の人が使えそうな人を順番に自分のチームに組み入れていく仕組みがあったと思う(わたしが通っていた小学校ではその仕組みを「いる・いらない」と呼んでいた)。

いる・いらない、という調子にあわせておこなわれるジャンケンで、勝ったほうのリーダーが、次々に運動ができるクラスメートを選んでいく。わたしはいつも最後まで選ばれず、挙句、最後のジャンケンで勝ったリーダーに「いらない」とさえ言われ、最後のジャンケンで負けた側のチームに押し付けられる、そういう役回りを演じがちだった。

ずっと体育の授業は嫌いだったし、いまだに体育をサボったせいで高校を卒業できない夢を見る。つらい朝だ。いろいろ思いを巡らせていると、自分が集団行動が苦手なのも、協調性がないのも体育が苦手で嫌いだったからなのではないか、と思ってしまう。体育って体力をつけるだけでなくて、規律を体に染み込ませるためのものでもあるわけでしょう。

社会にでると集団行動ができないこと、協調性がないことで損することがたくさんある。子供には自分と同じようなみじめな思いや失敗をして欲しくない。だから、運動ができるように小さいときから準備をさせてあげたい。

もし、それでも運動ができない場合、あるいは運動ができるできないに関わらず、集団行動ができないのは生得的に決まっているようであれば「そういうタイプの人間でも、お父さんのように就職したり、結婚したり、マンションを買ったりができるから、なんとかなるよ。逆上がりできなくても大丈夫だよ」と教えてあげたい。

子供について語ることは、自分について語ることなのかもしれない。

ブレイディみかこ 『いまモリッシーを聴くということ』

いまモリッシーを聴くということ (ele-king books)

いまモリッシーを聴くということ (ele-king books)

 

モリッシーの全キャリアを振り返りながら、各アルバムが発売されたときの英国のカルチャーや雰囲気、そしてモリッシーの私生活や状態関係性を読み解く、英国在住のライターによる一冊。控えめに言っても大名著。The Smiths以降のモリッシーについてはあまりフォローしておらず、彼の自伝も途中で読むのにうんざりして投げた自分のようなファンにはうってつけの本だと思った。

「モテと非モテリア充とオタク、人間と動物、クールとアンクール、ノーマルとアブノーマル、金持ちと貧乏人。これらの対立軸で、モリッシーは常に後者の側に立っていた」。一方で、モリッシーには、こうした対立軸の両極端に属するキャラクターが同居している。

内向的でありながら、自尊心も強く、基本は純粋なのだけれど、かなりの戦略家でもある。端から見たら矛盾だらけでやっかいな人、めんどくさい人間。個人的には絶対一緒に仕事したくないタイプの人であるのだが、モリッシーのこうした複雑な人間性を、胸いっぱいの愛で魅力的に描き出している。自伝の翻訳が許可されていない現時点で、モリッシーThe Smithsについて書かれた最良の本のひとつなのではないか。