こないだ読んだロザリンド・クラウスの本でラカンが援用されてて全然わからなかったのをきっかけに、ちゃんとこういうのを読めるようなってみたいな、と思って『ラカン入門』を。自分のブログの過去ログを漁ってみたらこれで入門っぽい本を読むのが3冊目らしい。もはやラカン入門のベテランの域に達しているといえよう。
全体は3部にわかれており、1部で前期ラカンとラカンのテクニカル・タームの基本を説明し、2部で中期ラカン、3部で後期ラカン。分量としては1部と2部が同じぐらいで、3部は短め。全体の感想だけ先に述べておくと、1部は自分にはすごくよくわかりやすかったが、2部以降はいつもラカンを援用した文章を読むたびに感じる「なにいってんだ」という感じに途中でなってしまい、息切れ、力尽きた。あと索引がないのが、何度も読むためにはちょっと使いづらい……。
でも1部はホントに「見えるぞ、私にも敵が見える」って感じになった。それは千葉雅也とかを去年ぐらいから短いスパンで読んできたこともあると思うし(とくに『意味がない無意味』)、あと息子という、言語習得の真っ最中であり、非コギト的主体(自律した自我によって統一された意識的主体、のようにまったく見えない存在)と暮らしているせいもあると思う。ちなみに息子は現在、母親にべったりの時期であり、わたしになにかをされることをすごく嫌がる。父による去勢脅迫の段階のようである。
ひとつ漠然とした理解をえたものとしては、精神分析っていうのは「なんでこういうことをしてしまったんだろう」という事柄に対してなにか答えを与えてくれる、ようなものなのかな、と。子供の行動をみてると「なんで!?」っていうことばっかりだけど、そういうことって大人でもあるし、それって結局、意思ではうまく説明できないことなんだよな。
中身が空っぽの発言を繰り返す政治家(喋り方は父親のモノマネ)、精神分析的すぎるなあ、と思って朝の電車でずっと考えてた。
— mstk (@mk_sekibang) September 26, 2019
読みながらバカの一つ覚えのように、ものごとをラカンの言葉で分析したくなったのはご愛嬌、ということで……。