近年のイケてるビジネス・シーンにおいて新たなアイデアを創出するのにはある種のクレイジーさが必要である……などと語られているらしい。そこでのクレイジーであることは、文字通りに「狂っている」、「狂気に侵されている」という病の状態ではなく、その一歩手前ぐらい、なんとか社会的な生活もOKな、言ってしまえば、会社や集団のなかでギリギリ飼いならされるぐらいにはちょうどいいクレイジー具合、それが生産的なクレイジー具合であって、ガチで狂ってたら会社では使えないし、それはクリエイティヴじゃないんだ、ってことらしい。
まことに資本主義的狂気、って感じだが、本書の問いかけは「現代の狂気は、マジな狂気は使えないことになってるけど、哲学の世界だとマジな狂気こそ、マジでクリエイティヴってことになってたんだよ」ってところから始まっている。狂気と創造の関係性をめぐる哲学史。
副題にある通り、プラトンからドゥルーズまでを通史的に辿られ「狂気 に侵された人間こそが、一般人にはアクセスできない深淵を見ちゃってるんだよ」とするような統合失調症中心主義が批判的に検討される。プラトン → アリストテレス → アウグスティヌス → (ちょっと飛んで)フィチーノまで行くまでの人選は、ちょっとヴァールブルク学派っぽく面白く読んだし、精神分析や現代医学の言葉を用いながら近代以降のとくにドイツ観念論の人たちの自我や理性、狂気に関する記述を読み解く手付きは大変勉強になりまくった。ずっと、わかりやすい。終盤のデリダとかドゥルーズとか、個人的にぜんぜんよくわかってない人たちの取り扱いも「そうなんだ! だから、デリダとかドゥルーズってナウいんだ!」みたいな腹落ちもする。