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文化的消費活動の日記

ロレイン・ダストン ピーター・ギャリソン 『客観性』

この本については、MLだけ参加させてもらっている駒場の某研究会で読書会が開かれていて、その際、原著を買い込んだのだが、肝心の読書会も一回行ったかな……?(そもそも途中参加だったかもしれない)ぐらいで、結局原著をちゃんと読む機会は一度もなかった。

Tweetを確認したら5年ぐらい放っておいたことになる。あまりに素っ気ないタイトルすぎて(というか、原題を素直に訳しただけ)一体何の本かわからないであろうが、科学史/科学哲学の名著の邦訳である。

客観性。科学だけでなく、なにかを判断する際には当たり前のようにそれが求められ、ポジティヴ評価されるもののひとつとなっているその観念。それは、なんとなく17世紀の科学革命の時代に爆誕したようなイメージ、さらには科学革命以前は、みんな妄想じみた主観で世界を見ていた! みたいなイメージを持たれているけども、科学者たちが「やっぱ、客観性って必要だよね」って言い出したのは、割合最近のことで、19世紀の初頭だったんだよね〜、というのが本書。

その客観性の社会的確立の歴史を、科学の現場で生産されるアトラス(科学的図像をまとめた本)の変遷に見ていく。これが大変おもしろい。客観性以前のアトラスでは「本性への忠誠」という価値観が優勢であって、その時代の図像は、描かれた対象物をそのまんま描くのではなく、対象物の「個性」を排除して代表的なもの、理想的なもの、哲学の言葉を使うなら、イデアに近いものに寄せて描かれていた。つまり、そこには学者の主観が入り込み、図像製作者との共同作業のなかで、こねくり回されてでてきたものだった。卑俗なたとえを用いるならば、要するに、写真をアプリで加工して見せたいものにしちゃう、みたいなことだろう。

そう、写真。写真というテクノロジーがでてきたこともあって、主観性の混入を避けながら個物をそのまま描写することが可能になっていく(もっとも本書が指摘しているように、写真の誕生とともに、すなわち客観性が確立されたわけではない。写真だって修正できるし、初期の写真では出版・複製の際に図版化を避けられなかった)。しかし、個物をそのまんま描くことによって、今度は「じゃあ、なんで、それなの」という代表性の問題もでてくるし、図像を使ってなにを伝えるのか、という図像製作から図像をどのように使っていくのか、みたいな話になっていく。客観性以前の図像が学者と職人の共同作業で練り上げられていったものだったのが、どんどん社会的な構築物として広まっていくその過程が歴史として編まれていくよう。

まぁまぁ難しい本だとは思うのだが、大変勉強になったし、第4章「科学的自己」はたまたま同時に読んでいた『創造と狂気の歴史』ともリンクして読めた。

同じ版元から出ているダストン&パークの名著『驚異と自然の秩序』についても邦訳待ってます!

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