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文化的消費活動の日記

トマス・ピンチョン 『ブリーディング・エッジ』

2013年に発表されたトマス・ピンチョンの現時点での最新作。舞台は2001年、インターネット・バブルが崩壊した9.11の前後のNYを舞台にした、実にピンチョンらしいパラノイア・ミステリー……とも言うべきか。サブカルチャーへの言及、ナンセンスなリリックの挿入、妄想と陰謀の区別がつかないストーリー・テリングなどピンチョンらしさが全開。ピンチョンのなかでも最も読みやすく、かつ、面白さのバランスも取れている「代表作」、『競売ナンバー49の叫び』を彷彿とさせる本作がひょっとすると最後の作品かもしれない……ってのは、なんだか収まりが良いような気もするし、いや、これが最後か……って感じもある。

ひとまず執筆当時70代だったピンチョンが、オタク・カルチャーを描こうとチャレンジしているのには感心する。たとえばプレイステーションで発売されたゲーム「メタルギアソリッド」のストーリーに触れた部分があって「え、ピンチョン、『MGS』やってんの?」と驚くが、シリーズ第1作がでてるのって1998年だからリアルタイムでいうとピンチョンは50代。「バイオハザード」で有名なアナウンサーの鈴木史朗みたいな例もあるから、特別すごい、ってことでもない。そう、2001年ってもう20年前なんだよな……(ちなみに鈴木史朗(1938-)とピンチョン(1937-)は同世代である)。

このピンチョンのサブカル趣味に訳者が追いつけてない感じがやや気になる翻訳だった気がする。「メタルギアソリッド」の話であれば「長官」という訳語がとられているところは「局長」じゃないとダメだと思うし、オレンジ色の洋服を着た「フライング・ダッチマン」で想起すべきなのはワーグナーのオペラなどではなく、ヨハン・クライフだろう。

また、読んでいて一番気になったのは、本書におけるコンピューター用語の表記ルール。「リナックス」とか「ジャバスクリプト」とか「パール」とかカタカナの縦書きでやられると、これは腰砕けになってしまう。大手新聞社のITよく分かってない記者が書いてるIT関連の記事を読んでいるような感覚(なぜか中盤ぐらいからLinuxLINUXと全角縦書きになっていたが……)。全体的に表記ルールが謎すぎ。

英単語は基本カタカナ置換というわけではなく、たとえば「SWIFTコード」は全角縦書きで「SWIFT」、URLは半角横書き……みたいに混在している。「Linux」みたいな頭大文字の全角縦書きの見た目の悪さみたいなのもわかるのだが……それは差し引いてもやっぱ「ジャバスクリプト」はないわ……って思う(もっと細かいことをいうと、UNIXは全部大文字で良いけど、Linuxは全部大文字じゃなくね??)。主人公が不正会計調査の専門家というのもあって金融や会計用語もでてくるのだが、そっちはちゃんとしているように思えるのに、コンピューター用語はなんでこんな感じなの?

こういうことで「気が削がれる」とか言ってると、オタクがごちゃごちゃ言ってるよ……って感じになってしまうし、実際そうなのだが、とはいえコンピューター関連のテクストにあたってたら「プロトコール」とか「テュートリアル」とかいう表記はありえないと思う……(英語の音に忠実ってことなら、ジャもないわけで)。山形浩生が翻訳に絡んでいたら劇的に改善しただろうに……。

もっともピンチョン自身がどこまで情報テクノロジーがわかってて書いてるのか怪しい部分もある。「パスワードを解読しようとするハッカー」とか「コンピューターに勝手に仕込まれてて偵察衛星に傍受したデータを送信するチップ」とか、ハリウッド映画にでてくるベタなヤツみたいなレベル。俺はサイバーパンクSFみたいなのって全然詳しくないのだが、描写のレベル感でいったら初期のギブスンとあんまり変わらない、っていうか作中でも言及されているが『JM』(キアヌとビートたけしがでてくるやつ!)の感じ。いまで言う「メタバース」的なものも作中にでてくるのだがその描写も懐古的とさえ思えるほどだ。

実際、懐古的な小説、それで終わっちゃう作品なのかもしれない。2001年の思い出話。モニカ・ルインスキー(不適切な関係)! 『フレンズ』! そこでは当時、世間を襲った9.11陰謀論もでてくれば、あきらかに作中にとっての未来から過去を振り返って、読者にとってはすでに失われているものへのノスタルジーを煽る描写もある(作中でまだ存在しているWTCに関しての描写)。20年前。そこそこ昔でありながら、まだ記憶が残っている時代を描くなかで、必然的にフィクションはリアルと色濃く結びつく。ピンチョン得意の陰謀論が、現実のパラノイア的状況(フィクションとしての陰謀論ではなく、リアルの陰謀論)と密接に絡んでいるのは特異である。