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文化的消費活動の日記

古田徹也 『言葉の魂の哲学』

2019年にサントリー学芸賞を受賞している。我々が日常的に使っている言葉をめぐって平易な言葉で哲学する大変学びある一冊だと思う。本書を読むにあたって前提知識もほとんど必要でない思われるし(丁寧に読む体力さえあれば)中高生でも読みこなせるはず。

哲学の言葉を使って本書が探求するところを整理すれば、ここではソシュール言語学において定義された言語の区分、ラングとパロールのうち、パロールのほうをメインに取り扱っている。ラングは言語の構造や規則、パロールはその構造に沿って実際に運用される言葉たちのことだ。本書でも言語をめぐる哲学史的な部分に軽く触れられているけれど、学問的にはラングのほうを中心に検討は進められてきている。それに対して筆者はパロールが軽んじられてきたことで、言語の豊かな一面をスルーしてしまっているんじゃないかと問いかける。そして、構造、規則、骨組み、と言ったleanな言語の性格を取り扱う態度に、ヴィトゲンシュタインやクラウスという思想家をぶつけ、言葉のrichな性格をもう一度見出そうと試みる。

本書のタイトルにある「言葉の魂」、それはある言葉がもつ固有性のことだ。Aという言葉はBという意味である、A = B、と言葉を記号的に取り扱うことは本来不可能である、と著者は示す。外国語を翻訳するときの例を出すならば、たとえば、ポルトガル語におけるsaudadeは翻訳不能なもの(記号的に別な言葉に置き換えられないもの)として有名だろう。もし「saudadeって要するに「切ない」ってことでしょ?」と言ってしまえば、それはsaudadeがもっている言葉の魂、固有性を徹底的に損なってしまう。

これは外国語の話には限らない。自分の身近な例をあげるなら、福島の方言「もごせぇ」……これは「心配だ」とか「かわいそう」とかいう言葉を「かわいい、愛しい」という憐憫めいた言葉でラッピングしたような意味をもつ言葉だ……もまたsaudadeに似た他の言葉への置換の難しさを持っている。「もごせぇ」の意味はおよそ文脈に応じてグラデーションをもつ。「かわいい」という意味が強まっている場合もあれば、「心配だ」という意味が強まっている場合もある。ひとつの言葉でも意味は多面的であるのだが、我々は場合に応じてその立体的な言葉のある一面(アスペクト)だけを観るようにして言葉を運用している。

言葉の固有性をめぐって、本書では「しっくりくること」にも言及されている。ヴィトゲンシュタインは「シューベルトっていかにも「シューベルト」って感じだよね!」と言っているらしいし、著者は「西郷隆盛っていかにも「西郷隆盛」って感じだよね!」という例を出している。よくわかる。極端なことを例を出せば、西郷隆盛の名前が「山田太郎」ではしっくりこない。

だが、一方で、『ドカベン』の山田太郎はどうなるのだ、という感じもするのだった。あるいは鈴木一朗(aka イチロー)でも良い。とくに後者に関しては、スポーツ・ジャーナリズムにおいても鈴木一朗鈴木一朗のままであったら、ブレイクしただろうか(いや、していない。仰木マジック!)というような物言いまでされているが、個人的には、鈴木一朗鈴木一朗のままでも別に活躍は変わらなかったんじゃないか、と思う。というか、その「しっくりこなさ」とはつねに事後的にしか見いだされようがない。たとえば、西郷隆盛が仮に「坂本龍馬」という名前だったとしたら「坂本龍馬っていかにも「坂本龍馬」って感じだよね!」ということになると思う。

この点はあまり本書では触れられていないのだが、クラウスが指摘していた言語の自律性から話を進めることもできそうだ。クラウスは、しっくりくる言葉は言語の使用者が任意に選ぶのではなく、むしろ、言語のほうからやってくる、みたいなことを言っていたらしい(そこに言語の自律性がある)。たまたま西郷隆盛西郷隆盛であることも、言語の自律性でもあるし、歴史性の現れでもある。

本書における検討は、常套句やプロパガンダ的なクリシェといったpoorな言葉が我々から何を奪うのか、というSNS時代にアクチュアルな問題圏にも触れられている。要するに貧しい言葉に流されていると(「◯◯して優勝した」とか「◯◯勢」とか、SNS上では気になる言葉が多すぎる)バカになるぞ、みたいな話なのだが、クラウスはもう少し高尚な言い方をしている(彼はナチスの煽り運用に警鐘を鳴らしていたのだった)。常套句に乗らないこと(流れに乗らないこと)、しっくり来る言葉が向こうから来るまでいろいろと悩むこと、それこそが人間の責任なんだ、とクラウスは言う。このへんは千葉雅也の『勉強の哲学』のことも思い出された。勉強するとノリが悪くなる!

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