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文化的消費活動の日記

甚野尚志 『中世ヨーロッパの社会観』

文庫化されるあたって改題が行われている。改題前は『隠喩のなかの中世: 西洋中世における政治表徴の研究』で、こちらのタイトルのほうが本書の内容をちゃんと伝えているように思う。「中世ヨーロッパの社会観」では、文字通り、中世ヨーロッパの人がどんな社会観をもっていたかの研究のようだけれど、本書でおこなわれているのは、中世ヨーロッパの知識人たちがどのような社会を理想とすべきかを語る際に用いた比喩の研究だ。実際の社会をどう考えていたかではなく、社会はこうあるべきだと示したアーキタイプが研究対象になっている、というズレがある。

アーキタイプを示す際に中世の知識人たちは、蜂の生体や建築物、船、人体、あるいはチェスといったものを比喩に用いていた。蜂の巣には王蜂(中世の人々はまだ王蜂がメスの女王蜂であることを知らない)という中心があり、働き蜂がそれに仕えるようにして生活している。この自然の秩序、自然の合理性をひとつの理想形として、人間の社会も教会や王権を頂点とした秩序だったかたちであるべきである……このように知識人たちは語った。自然と人間社会との類似をもとにした理屈立ては、一見なにか筋が通っているように見えるが、どこかおかしい。蜂の社会と人間の社会、たしかに似ているかも知れないが、そこにはなんのつながりもないはずだからだ。蜂の秩序を人間が模倣するいわれはどこにもない。

このような類似をもとにした思考法は、フーコーも『言葉と物』のなかで16世紀の終わり頃まで西洋における支配的な思考のフレームワークだったと説いている。本書は、その枠組が近世になるにつれて廃れていき、今度は人間社会そのものの因果性、合理性による社会のあり方が説かれるようになっていく、そのはじまりの部分までを射程としている。チェスの隠喩を取り扱った章では、神学的な階層的秩序のアナロジーとしてチェスが用いられたものが、そうではなくなっていく、神的な世界から世俗的な世界のアナロジーへと変化していく様子が辿られていて興味を惹いた。

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類似の思考についてはルネサンス期にパラケルススも医学の分野で活用していたことを思い出す。