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文化的消費活動の日記

仲正昌樹 『今こそルソーを読み直す』

ルソーに関する伝記的省かれているもののルソー入門に「一冊」を選ぶならこれになりそう。ときに矛盾を指摘されるルソーの主張に関して無理やり整合性をとるのではなく、時と場所によって言うことが変わる人、としながらデリダアーレントのルソーへの批判的読解へ再批判をおこない、またロールズやスタロバンスキーによる読解を紹介している。とくにスタロバンスキーの『透明と障害』に触れている部分は、本が難しすぎて挫折した経験があったものなのでありがたい。

ネット技術の発展を通じて、”私”たち相互のコミュニケーションが限りなく透明に近づき、いつの日にか直接民主主義が現実化すると夢想する現代のネット知識人たちは、この「代補」に感染してしまった人たちなのかもしれない。

本書がでていたのは、ちょうど東浩紀らによる『社会契約論』をネット社会やテクノロジーと接続した読み直しのあとであり、これらに対しても批判が加えられている。ここで言われている代補とは、もはや戻ることの出来ない自然状態の代わりに挿入された代替品にもかかわらず(つまり、もはやありえないものにもかかわらず)、本物のような顔して、錯覚を及ぼすものとして描かれる。その透明な共同体への固執は、かえって社会からの孤立を生むだろう、と本書は締めくくられる。本書が描く、透明と障害の狭間に苛まれるようなルソーの姿と、「一般意志2.0」的なルソーは相容れることはない。

ただ、本書のルソーは、矛盾をそのままにすることによって穏便になってしまっていると言えるようにも思いもする。この穏便さに対して、近年の東浩紀が取り上げているようなルソーの憐憫概念のような非常にロマンティックなものを対比させたときに、どちらが魅力的に思えるのかを考えると、個人的には後者なのだった。