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文化的消費活動の日記

川上未映子 村上春樹 『みみずくは黄昏に飛びたつ』

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

近年の村上春樹の著作刊行ペースって長編がでると同じタイミングで別な少しライト目な本もでる、みたいなのが続いている気がする。本書は『騎士団長殺し』にあわせての、川上未映子によるインタヴュー本。これまでに自身の作家論的なものをまとめた『職業としての小説家』『雑文集』に収録された作家の声とは違ったスタイルで、村上春樹の姿が映った本だと思う。雑な表現をするならば、初めて村上春樹が俗世界に降りてきて語っているな、と。エッセイなどでくだらないことを書き散らかしている人ではあるけれど、くだらないことでさえ、村上春樹モードというか、ワールドのなかで展開されていた、それが下々の者が棲まうこの世界に引きずり降ろされている、というか。

それを可能にしているのが、聞き手の川上未映子の優秀さ。あたかも超一流のクラブ嬢のようなコミュニケーションで村上春樹に迫っている。相手のリサーチはとことんやるし、相手から言葉を引き出す的確な質問を投げる、さらには適度なタイミングで相手に突っ込みをする(またまた〜、村上さんったらヤだわ〜、みたいな)。

とくに『騎士団長殺し』ができあがるプロセスについての部分は、本書の帯にあるとおり「作家にしか訊き出せない」類のものである、と思う。同じ作家同士だから出てくる細かい部分(何回書き直してるんだ、とか、どんな風に描き進めているんだ、とか)を質問していて、大変興味深く読んだ。作家がひとりで物語の世界を作っている、のではなく、編集者や校閲部といった出版社のスタッフがその世界の成立を支えていることが明らかにされ、チーム(本書の言葉を借りると「村上春樹インダストリーズ」)で仕事を進められているんだな、とか、EGWord使って書いてるんだ! とか。

細かいところだと中上健次の名前が何度か出てくるところも気になるところ。「中上健次没後、文壇のメインストリームがなくなっちゃったよね」的な、日本文壇に対する一般的な了解のようなものを村上春樹も持っていたんだな、と思う。

騎士団長殺し』の解釈や気になる点についての質問も「そうそう、そこ気になってたんだよ!(主人公、36歳で貧乏なのになんで皿見て古伊万里、って気付くんだよ! とか)」と、わたしが思っていたことと重なる部分が多く、川上未映子に対する「村上春樹ファン代表」の信任投票があるなら「信任」を選びたい。

根占献一 『イタリアルネサンスとアジア日本』をご恵投いただきました

イタリアルネサンスとアジア日本 (ルネサンス叢書)

イタリアルネサンスとアジア日本 (ルネサンス叢書)

 

学習院女子大学の根占献一先生からご恵投いただきました。ありがとうございます。まだパラパラとページをめくっただけですが、ギョーム・ポステルの名前がでてきたりして、これから読むのが楽しみです。

湯木貞一 『吉兆味ばなし 3』

吉兆味ばなし〈3〉

吉兆味ばなし〈3〉

 

日本料亭「吉兆」の創始者湯木貞一の語りを集めた本の3巻。本の内容については、2巻を取り上げた時にも書いたけれど「季節ごとの食材について語り手があれこれ語る、その繰り返しで、春になれば筍だし、秋になれば松茸、と語ってることが循環していく」感じである。これが大変に気持ち良いし、(日本食・和食ではなく)「日本料理」が茶事・茶道の流れから形成されたことが腹に落ちるように思った。語り手の美意識が、民藝的、というか。これまた吉兆の系譜にいる土井善晴の「家庭料理は民藝」という言葉を想起させる感想であるが。

煮しめは翌日になって煮きなおしても、鮮度がまったくちがうものになって、きのうの面影もない、などということはありません。今日煮いた味は今日の味。それをいちど、冷蔵庫なりなんなりに眠らせて、また煮きなおしたら、それはそれで、また生きた味になるものです。

こういう言葉もいいなぁ、と。

本書では語り手が巡り合ったビッグイベント(表千家の法事で3日間で6000個の弁当を作った、とか)についても語られている。とくにマーガレット・サッチャーやダイアナ妃にどんな料理をだすか頭を悩ませた話が面白い。今日では欧米でも寿司や刺身が人気だ、と言われているが、ここには(語りがおこなわれた当時の)30年前に海外で日本料理がどのように受容されていたのか(というか、受容されていなかったのか)が明らかになっている。

https://www.instagram.com/p/BTNpUYPB3DS/

20年以上前に挟まれたはずのハガキに書かれた言葉にもちょっと心が揺れてしまった。いい本の作りだな、と。

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パオロ・ロッシ 『魔術から科学へ』

魔術から科学へ (みすずライブラリー)

魔術から科学へ (みすずライブラリー)

 

原題は Francesco Bacone: Dalla Magia alla Scienza なのだが邦訳では本書の主人公であるイギリスの哲学者、フランシス・ベイコンの名前がどっかにすっ飛んでしまっていて、なんの本だかわからなくなっている気がする。このタイトルだとだれもが「魔術から科学へとパラダイムが変化する通史を追った本」を期待するんじゃないか……。

「フランシス・ベイコンの思想のなかに近代科学に通ずる認識があったのであーる」的な本なのだが、この紹介もなんか歯切れが悪い気もする。読んでも「ベイコン、面白いな!(すごいな! 近代に通じるな!)」とパッと理解できなかった。

プラトンだのアリストテレスだのといった哲学的伝統を批判する立場にベイコンはいた。けれども「プラトンとかアリストテレスとかって基本は正しいんだよ! けど後世の人がその道を歪めてるから、俺がもう一回正しい哲学のやり方に戻すよ!」的な感じなのだ。本書ではベイコンの仕事とデカルトのそれの比較もおこなわれているのだが、デカルトが「これまでの学問は全部ダメ! 俺が新しい哲学を始めるんだ!!」と張り切っていたのと比べると、ベイコンのインパクト弱くない? と思ってしまう。

要するに伝統への批判、そして伝統との連続性のなかにベイコンが置かれ、その新古典主義的な読み替えの妙を感じ取るには、もうちょっとテクストを真面目に追う必要がある。とくに本の後半、ベイコンがラムスの思想の影響を受けつつ弁論術を自然を記述する新たな方法として作り変えていくくだりは「おお、なんかカッコ良いことが書いてあるな!」ぐらいになってしまってついていけなかった。

好事家向けには3章の「古典的寓話と科学改造」が面白いと思う。「古代人たちが遺した神話のなかには世界の真理が隠されている!」と考えていたベイコンの神話解釈について言及した部分。柴田和宏さんがベイコンの神話解釈に関する論文を紹介していたのを思い出した。

d.hatena.ne.jp

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柳宗悦 『柳宗悦 茶道論集』

柳宗悦茶道論集 (岩波文庫 青 169-6)

柳宗悦茶道論集 (岩波文庫 青 169-6)

 

民藝運動創始者柳宗悦が茶道(のなかでも器に偏っているのだが)について記した文章を集めた一冊。冒頭の一編「茶道を想う」からなかなか面白くて。千利休に代表される初期の茶人たちは、物事の本質を直に体験する感性をもっていたのだ、というような話から始まっている。初期の茶人っていうのが、プラトンでいえばイデアとか、カントでいうところの物自体に直接アクセスできるような一種の超人として語られるのね。初期の茶人に比べると、最近の茶人は、思想だとか形式だとか伝統だとか流派だとか、物を見るためのフィルターや拠り所がないと物を見れてない。そんなんじゃ、ダメだ、利休に還れ、的なことを著者は言っている。要するに、これ、茶道のルネサンスみたいなものなんだな、と。

ほかにも「じゃあ、初期の茶人たちが尊んだ感性ってなんだったのか」みたいな話が面白い。とくに「渋さについて」という一編が良い。アメリカ人向けに「渋くてカッコ良いっすね」とかいうときの日本語の感覚を説明した話がもとになっているんだけれど、何気なく自分も使っている「シブいね!」の意味が解体され、腹に落ちる感じ。あと、柳宗悦の民藝といえば「用の美」じゃないですか。対して、柳宗悦の茶道論のなかには「茶室のなかだけで茶道やっててもダメ、茶室の外との連続性をつくるのがホントの茶道」っていう話があって。これ、民藝と通ずるな、と思いました。生活の中に美が置かれてる、っていうか。まさに「日常茶飯事」のなかにある美だな、と。

九鬼周造 『九鬼周造随筆集』

九鬼周造随筆集 (岩波文庫)

九鬼周造随筆集 (岩波文庫)

 

大変に良い随筆。九鬼周造、といえば、わたしのなかで多くの人が代表作のタイトル(『「いき」の構造』)を知っているにも関わらず、読んだことがある人は少ない本を書いた人代表、という感じなのだが、ひょっとすると随筆のほうが面白いんじゃないか、と。日本近代初期に活躍した政治家の息子で、金に苦労したことはおそらくなく、ヨーロッパに留学して、ハイデガーベルクソンと直接会ったことがある日本人。ガチガチのお坊ちゃんだし、自分でもヨーロッパ留学を「高等遊民」気分だったと書いているのだが、お金に苦労をしたことがない人にしか書けない余裕がこの随筆からは感じられるような気がする。ホンモノのエリートの文章。こういうのは限られた時代の、限られた人にしか書けない。生まれ切っての文人、というか。

ただ、複雑な家庭に生まれているんだよね。これがきっと筆者が過去を振り返ったときの、センチメンタルな、サウダーヂ的な文章の情感に影を落としているのだろう。筆者がお腹のなかにいるときから母親は父親の友人であった岡倉天心と付き合っていて、父親、母親、岡倉(母親の愛人)の三角関係のなかで幼少期を過ごしたりしている。普通、そんなんなったら父親と岡倉のあいだは絶縁するじゃないですか。よくわかんないんだけど、父親の九鬼隆一と岡倉天心って終生親交があったらしいんだよね(どういう感じなんだ……)。結局、この不倫関係が原因で、母親の波津子は精神を病み、不幸な一生を送ったことを九鬼周造は恨んでいて、大人になってから岡倉とは疎遠だったらしいんだけど。

そういうわけだから、なんか九鬼周造のなかにはどんなに楽しくても埋められないサムシングがあったんじゃないか、と思うわけ。あるいは、そういう埋められなくて寂しい、っていう感じが、美しい、っていう感覚と癒着している、っていうか。儚いもの、がっちり掴めないものを九鬼周造が「良いね」っていうときの、わかる、でも、寂しい、って感じがすごく良い。とくに秋に書かれた文章。

匂も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里にいた頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)の匂が好きだった。匂が男性的だというので自分でもゲルランのブッケ・ド・フォーン(山羊神の花束)をチョッキの裏にふりかけていたこともあった。今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

過去の美しさと、儚さ。九鬼周造の短い文章のなかに、プルースト的なものがギュッと濃縮されている。死に瀕した京都の舞妓について「美しいものをこの世から死なせたくない」と書いているのも良い。やっぱさ、何よりいいのが、金持ちだから寂しいから耐えられない! とか切実な感じがないところなのかもしれないけども。

山田俊弘 『ジオコスモスの変容: デカルトからライプニッツまでの地球論』

読了。すでに本書の紹介はおこなっており、改めて文章を書く予定もあるので、手短にここでは触れておく。17世紀の知識人による地球の捉え方をデンマーク人学者、ニコラウス・ステノを媒介として紐解いた本。超メジャー級のところでは、デカルトスピノザライプニッツといった人物に焦点があてられ、好事家向けにはアタナシウス・キルヒャーのページもある。超メジャー級の人物を扱った部分は、まさに哲学史の「地下世界」を掘るような仕事だと思うし、アリストテレスに代表される古代からの伝統や知見とコペルニクスやティコ・ブラーエによってもたらされる新説が混交したコスモロジーがどのような変化を遂げたのか(その変化のきっかけには、新大陸からもたらされた新しい発見や、イエズス会宣教師たちのネットワークによって報告される知見がある。つまりはグローバリズムの萌芽が認められる)は大変魅力的だった。

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