起床
6時前。
昨日、Hのおもちゃを直すのにアロンアルファを使っていた際に(ぜんぜん接着せず終わった)どういう原理の接着剤なのか調べていた。空気中の水分に反応して固まるものらしい。筋トレ(背中、腹筋)をしながら、ふと「あ、それって漆と一緒じゃん。漆をヒントにしてるのか?」という気づきがあった。
天気が悪いせいか、Hがゆっくり起きてくる。
5km。最近は走り出して2kmまで心拍数がどこまで上がるかで調子を図っているのだが(だいたいそのときまでに140BPMぐらいになっている。調子が悪いと150BPM近くまであがっている)、今日は2km過ぎても130BPM周辺だったので中盤からビルドアップ走にした。心拍は190BPM近くまであがった。残り500mぐらいが最高にキツいのだが充実感はある。
読了。
次。
夕方、糖質ゼロビールを飲みはじめる。明るいうちに思い出して駐車場の邪魔になってる植栽の枝を切る。
夕食とともに日本酒。
ストレッチ後、エスプレッソを飲む。そして風呂。
Twitterでピアソラのアメリカン・クラーヴェから出したアルバム(そのうち重要なのは2枚だけ。『ラ・カモーラ』と『タンゴ・ゼロ・アワー』)がサブスクで聴けるようになっていたことを知る。狂喜しながら読書(サブスク音源の音が良い気がする)。当然CDでも持っているわけだが……。
いろいろ調べ物をしていたらDCPRGのファーストがアナログででる、ってんで予約。
『哲学の歴史』6巻のメモ
バークリの章。これも名前は知ってるけど、まったくなんの人か知らない人であった。議論自体はかなり面白い、というか、この章は導入部のフックが良い。「「私」がいなかったならなら世界は存在しないのではないか」(P. 173)、こういう気持ちからバークリは自身の哲学をはじめたのだ、と。で、彼はその存在論において「存在するとは知覚されること(Their esse is percipi)」と語った。さらには「物質は存在しない」とまで言う。
これだけだと私以外世界じゃないの(私が知覚してないものは存在しない)的な独我論に解釈されてしまうが、そうじゃない、という。さらには、知覚されないものは存在しない、けれども、素朴な実在論ともこの主張が両立するんだと。どうやって? ややこしいけれども、このロジックが個性的である。著者曰く「物質が存在しない」っていうのは、それ自体を観念として知覚できないから、存在しない、っていうことらしい。そして、私が知覚していなくても、他者が知覚しているかもしれないし、究極な他者存在と位置付ける神が知覚しているかもしれない。
なんだよ、神によって存在が支えられてる、って普通の話すぎねーか? と早とちりしてしまうのだが、バークリが面白いのは、神の存在をアプリオリに前提するのではなく、「私」がいるかもしれない、いるだろうという推論によって導いている点にある。
バークリの章を読んだら、なんか疲れたので、陶磁器の辞典を眺めはじめた。