sekibang 3.0

文化的消費活動の日記

2021年6月16日、あるいは2回目

起床

6時過ぎ。夜中の雷のせいで睡眠の質が悪い。筋トレ、肩、上腕三頭筋

昨日決めた家具の振り込みをする。

シンエヴァの薄い本をもらうために映画のチケットをとる、が、豪雨で萎える。ダナーのブーツにレインコート的なものを着て完全防備で出かける。

移動中読みはじめる。ちくま学芸文庫にこの本の増補版があるっぽい。

 
 
 
 
 
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今回も「長いな」と思って観ていた。最後の10〜15分ぐらいが個人的な「卒業エピソード」みたいに思っていたので、そこを再度確認できたのは良かったが、やはり2度目を観て、むしろ2度目を観たからこそ、映画(映像作品)としてはちょっとしんどい。初回のときも思ったが、三次元的な戦闘シーンが長々と続く(2度ある)が、そこでなにが起こっているのかが視覚的に理解できない。ただでさえごちゃごちゃしたデザインのメカが動き、それをキャメラがグルグルと追いかけていく2度目はよりしんどい。
端的にいって、わからない。たとえるならば、サッカーの試合ですごいプレーが起き続けているらしいが、リプレイもスローもないから観客には全然伝わっていない、みたいな。もどかしい。大いなるマニエリスムということなのかもしれないが、そのマニエラが極大化している部分よりも、マリの乳揺れとかのほうがわかってしまう(キモい)。わかる絵を求めてしまう、という態度が批判されるべき、とも思うのだが。気持ちよく見れるアニメーション部分っていうのが長尺の作品のなかにもう少しあったら良いのだが、変形するパリのシーンぐらいしか思いつかなかった。
Twitterで制作側から出されている情報をいろいろ読んでいると、手持ち撮影風のブレを再現するために、モニターに映し出してるアニメーションをiPhoneで再度撮影して、その動画をもとに再度作り直す、みたいなことをやっている、とあり、NHKのドキュメンタリーで紹介されている以上の極めて手の混んだ技法があったことを知る。アスカがシンジに無理やりレーションを食べさせるところは「あ、これ実写っぽいキャメラの動きだなあ」と思った。実写っぽい動きを再現していくというその志向には、かなりの倒錯も感じる。

帰宅して仕事。気づいたら気絶していた。

夕方、糖質ゼロビール。夕食とともに泡盛

ストレッチ。風呂。

今日はインプットの日、と思うことにして、小説を書くのはやめる。

細田守未来のミライ

細田守の長編は『サマーウォーズ』以来、ずっと劇場で観ていたのだがこれは公開当時に大炎上プロジェクトを抱えてたのでそれどころでなかった。現場の最寄り駅にポスターが貼ってあったのを思い出す。桜木町あたりを遠景に映すドローン撮影(っぽい)冒頭のショット、これも実写の再現を志向する。主人公(くんちゃん)は4歳の男子で、Hとも近いし、行動も似ている、が、上白石萌歌の声がちょっと4歳の男の子には無理な感じでキツい(だんだん慣れてくるが、嫌な低音が持続音のように鳴りつづけているみたいだ)。
お父さんは建築家で、おしゃれなコンクリ打ちっぱなしと無垢材主体の戸建てに住んでて、ボルボの240エステートが庭に停まってて、ミーレの家電を使い、声が星野源星野源は、今風(を気取る)お父さんの嫌な部分を全部引き受けている)、スタイリストは伊賀大介、子育てグッズもダッドウェイで売ってるオシャレなやつ。この隙のなさがマガジンハウスのライフスタイル雑誌みたいでキツい。川村元気が絡んでる映画は積極的に避けていくべき直観を得る。
しかし、育児や家庭の様子はものすごいリアリティ。くんちゃんの一挙手一投足は(繰り返しになるけども)本当にHを観ているようで、自分のチャレンジが上手くいかなくて泣いてしまう、その子供の気持ちに感染する感じがこのアニメーションのなかでも起こる。その一瞬は端的に良いと思ったが、最後、SF的な介入によりくんちゃんが急に物分りが良くなる、その予定調和は支持できない。「そこで親の言うことなんか聞いちゃいけない!! 君は、黄色いズボンを履くべきだろ!!」と強く思った。作品全体としてみると宮崎駿高畑勲じゃないジブリ映画ぐらいの水準。地上波で放送されるにはちょうど良いのかもしれない。