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文化的消費活動の日記

松本卓也 『人はみな妄想する: ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』

『疾風怒濤精神分析用語辞典』に引き続き、ラカン関連の本を。こちらは松本卓也の第一著作(2015)。ラカンの理論的言説を通時的にたどりながら鑑別診断(本書で取り扱われるのは、精神病か神経症かの診断)の変遷を整理したもの。その変遷を超大雑把に圧縮してお伝えするなら「50年代、60年代のラカン神経症/精神病を区別する理論化をおこなってたが、70年代のラカンはあらゆる主体のベースに精神病があると考えるようになり、最終的には神経症と精神病を区別して論じなくなった(が、臨床的には区別した)」ということになると思う。大変精妙かつ丁寧に整理されながら論述されるので『疾風怒濤精神分析用語辞典』よりも求められるレベルはあがるものの、個人的には『疾風怒濤精神分析用語辞典』を読んだときに追いつけなかった70年代ラカンのエッセンスがふんわりとわかるような気になったのが収穫だった。

ラカンの思想を学ぶ側面だけでなく、ジャック=アラン・ミレールに代表される現代ラカン派の実践についても触れられている。2010年代前半にフランスでおこった同性婚に関する議論において、同性婚反対派の論者が精神分析によりかかりながら異性愛を「自然な性のあり方」と主張したことに対してミレールが反論し「現代におけるエディプスは規範としての機能をもっておらず、それぞれの主体の欲望の特異性=単独性が尊重されるべきだ」と主張したことについては、超難読なラカンが行き着いたのがそんな「世界に一つだけの花」みたいな話で良いのか! と改めて思うのだが(特異性=単独性とうまくやっていけるようにするのが精神分析終結である、という結論! 言ってることの大半がめちゃ難しいのに結論部だけ異様にスッキリしているこのすさまじさ!)、晩年のラカンがたどり着くことになる逆方向の解釈(症状を解釈するのではなく、その症状の発生の根源を探ろうとすること)に関連して「いまやミレールを中心とする現代ラカン派では、意味論的な次元における症状は二次的なものであり、あらゆる症状は身体と言語の最初の出会いが刻まれた非意味論的で自体性愛的な「身体の出来事」をその根に持っていることが共有されている」(P.422-423)と言われているのが興味を惹いた。読み様によっては「身体の出来事」を脳の器質的な問題へと還元していくことになるのかもしれないが、主体の特異性の偶有性、たまたまそういうことになっている、という語りぶりは今っぽくも感じられる。

結論部では、現代の精神医学の包括的なケアに関する問題提起が行われている。そこでは、不治の病であった精神病が投薬と認知行動療法によって治りうる病になり、支援を受けながら病者が生活しうる病(健常者とともに生きられる病)へと変化したこと、それ自体は喜ばしいことだが、それが結局は「己の能力を最大限に発揮せよ!」、「享楽せよ!」という資本の論理に回収される危険性もある、と指摘されている。このくだりを読みながら、毎週日曜日の朝、NHK教育の園芸番組をぼんやり見ていると突然始まる「no art, no life」という番組のことを思い出していた。内田也哉子があの独特なトーンのナレーションでいわゆるアール・ブリュット的な人々を紹介する、そのプログラムに感じていた違和感は本書の結論部によって言語化されるようだ。それはまさに享楽がアートという資本に収奪される様子そのもののようにも見え、もっと意地悪な読み方をすれば、アートをする精神障害者を称揚することでアートをしない精神障害者の立場を貶めることにならないのか、とか。