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文化的消費活動の日記

ノーバート・ウィーナー 『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』

古典に触れていると「こういうのを書ける人って今はいないんだろうなぁ」という感嘆を覚えることがあるが『サイバネティックス』もそういう本。本書のなかで著者はライプニッツをすべての学問に通じていた哲学者と評し、以降の学者は専門化/分化していったので、すべての学問に通じることができなかったと論じるのだが、数学も哲学も機械も物理も生物学も熟知してます、みたいなウィーナーにそんなことを言われると、現代の凡夫としては「あなたも充分ライプニッツのような知識人に見えますが」って思う。

数式の部分はなにが書かれているのか一切わからないので、到底「読めた」とは言い難い本ではあるし、かなり「持て余す」感満載ではあるのだが、哲学を研究していた著者ならではの哲学史的な知識と物理学の結びつけの部分は楽しく読んだ。

第1章「ニュートンの時間とベルグソンの時間」はニュートン力学が有効なマクロの世界と、計算が複雑すぎて無効化されてしまうミクロな世界の対比について書かれている。また、第6章「ゲシュタルトと普遍的概念」では人間の認識力の問題について触れられている(たとえば、いろんな角度から写した人物の写真、それぞれは違う写真であるのに、それがどうして同一人物と認識できてしまうのか、とか)。

このへんはとくに面白く読んだけど、ただ、これらの記述がどう「サイバネティックス」というタイトルにつながるのかはよくわかっていないのだった……。著者が自分の仕事を戦争中にスピードを増した戦闘機を撃ち落とすための迎撃システム開発に端を発する、みたいなことを書いている。そこでは戦闘機が今見えているところを狙ってもダメで(目標が動いてるので、見えてるところに弾を届かせても、弾が届くころには目標は別なところに移動している)、弾が届くころに目標がいそうなところに撃たなきゃいけない。つまり「その時点の位置」(入力)をフィードバックとして入力して「撃つ」(出力)ことが必要だ。そういう入出力の相互関係が社会的な行為(など)にも見いだせるのだ、みたいなことが書いてあると思うのだが……。