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文化的消費活動の日記

福尾匠 『非美学: ジル・ドゥルーズの言葉と物』

 

書いてあることの8-9割がわからない感じであったがなんとか通読。第6章の注15、東浩紀における確率的なものへの付言。これは非常に重要な指摘で、驚きとともに気付かされる。東が確率論的な暴力を問う。たとえば、アウシュヴィッツで殺されたのは私だったかもしれない(たまたま私ではなかった)、という理由のない偶然性、交換/入れ替え可能なものの暴力を。しかし、本書はそのような「確率論」を等確率的な「理想化」として諭す。たしかに現実はそのように等確率的なものではない。確率はなにかによって偏っている。