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文化的消費活動の日記

福尾匠 『眼がスクリーンになるとき: ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』

 

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

  • 作者:福尾匠
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2018/07/26
  • メディア: 単行本
 

ドゥルーズの『シネマ』は読んだことないけど思い出深い本である。学生の頃一番仲が良かった友達はシネフィル系の人だったのだが、彼は『シネマ』を原書、英訳でもっていて、『シネマ2』の翻訳が『シネマ1』よりも先に出た、という話をした。なぜ、そんなことをしっかり覚えているのか、といえば『シネマ2』の翻訳者のひとりである宇野邦一の講義を、その友達と一緒に受けていた、とかそういう要素も絡んでいるのだろう。社会人になってから『シネマ1』の邦訳も出揃い、思い出もあって「いつか読みたい本」みたいな気持ちはずっと続いている。が、例によって読めてないし、買ってもいない。

で、昨年出ていたこの本。副題は「ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」。近年、自分のなかでフランス現代思想への関心が高まりつつある流れで手を出してみたのだが、むずかしくて挫折した。ゼロから読めませんでした。丁寧に書かれているのだと思うのだが、いまの自分にはこれを丹念に噛み砕いて読み通す体力と時間がなかった。

『シネマ』はどういう本なのか。このタイトルからは「哲学によって映画を語る解釈の提示」的なものが想像されうるだろうが、全然そういう本じゃなくて、ドゥルーズは哲学を練り上げるための媒体として映画を用いている、と著者は位置づける。そうなのか、とイチイチ勉強になるのだが……正直本書で『シネマ』が遠ざかってしまった感じはある。

ドゥルーズ読解のために丁寧にベルクソンを紐解く箇所なども勉強になり「ベルクソンって認識論、脳科学とか神経科学とかが分かり始めた頃の認識論って感じなんだなぁ」とか感心したりもする。

イメージの宇宙を光の拡散に読み替え、その光を受け取るスクリーンがあってはじめて特定の像が結ばれるということを、生物の知覚の発生に結びつけている。(P.142)

ベルクソンに関するこういう記述は、まるでアヴィセンナのようだな、と思ったり。存在論とか認識論とかまるで自分には関心がないことも確認したりして。