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文化的消費活動の日記

三浦哲哉 『自炊者になるための26週』

「自炊者」。聞き慣れない言葉だが、端的に「自炊をする人」と理解しようとすると、自炊への入門、導入を誘うテイである本書はかなり奇特な内容だと思う。料理の入門書、であるならば、包丁の握り方や野菜の切り方などの基本技術を紹介したのち、日本の食卓における定番料理、カレー、ハンバーグ、肉じゃが……あたりのレシピを掲載するのがオーソドックスなものとして想像されうる。昨今の「時短」への関心の高まりを汲み取れば、それらのレシピは簡単化・シンプル化されたものにアレンジされているだろう。煮込まないカレー、玉ねぎを炒めないハンバーグ、フライパンで作る肉じゃが……のように。

最初に紹介されるのはトーストの焼き方であり、なかなか包丁がでてこない時点で、そうした定番の本ではないことは明らかだ。本書で語られるのは、調理の方法を案内することよりも、料理をするときの態度、あるいは味わうときの態度についてだ。調理時の導線を意識し煩雑さを回避しながら、風味と向き合うことによって「面倒 < 感動」を生み出す、それこそが、自炊を続けるための方程式なのだ、ということが示される。調理や食事をしている際の行為者になにが起きているのかがつぶさに観察された結果が記述される。包丁がうまくなる様子、料理のあじわいが口内や鼻孔を通過するときの感覚などがときに哲学や現代思想の言葉を用いながら描写される。そう、そんな感じ、と膝を打つこともあるし、自炊のなかに著者が参与観察しているようでもある。

ただ、個人的には全然乗れない本でもあるのだった。

理由はいくつかある。そもそも自分が日常的に料理をする人間ではない、という根本問題もあるのだが、仮に自分が料理をする人間だったとしても、持ち家でキッチンの(収納も含めての)スペースや今日住環境そのものが固定されている人は、実践不可能なことがいくつも書いてある。たとえば、風味を有した良い素材をどのように入手するのかを説くパートでは、肉や魚、野菜の専門店のエキスパートを見つけることが推奨されている。しかし、そんな店が周囲にない場合は? 「その場合は、隣街を探してみるほかありません。それでも見つからなければ、引っ越しを考えてもいいと思います」……と衝撃的な一言がある。イオンなどの大型商業施設に蹂躙されて地場の専門店が大方駆逐されたあとの地方在住の読者はどう思うのだろう。みずからの目の変わりに「目利き」になってくれるエキスパートが営む専門店、その存在はある程度経済/産業が栄えた都市圏にしか残っていないことが予想され、自分の地元なんかを考えたら、出会いようがない*1

比較的大きな都市に在住で金銭的にも余裕がある独身の人ならば、本書のフィロソフィーに動かされるかもしれない。独身……しかも、独身男性だ。そもそも自炊する必然性/必要性は特別にない人がわざわざ生活/趣味のなかに自炊を取り込む、その入門書としてなら理解できる。さらにやや悪し様な物言いを続けるならば、本書で提唱される風味を生かした料理やそのこだわりポイントは実に「男の料理」的である。「◯◯でなければならない」という神経症的な拘泥からは逃れることを促しつつも、小型ワインセラーの導入を奨める「自炊のためのワイン保存システム」の記述などは、どう考えても一般的な生活からはかけ離れている。ワインが文化に根ざした(日本人が大好きな)パリのフランス人の家にだってこんなシステムはないだろう。

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言うなれば、持続可能な新しい男の料理、って感じなのかもしれない。村上春樹をずっと愛読してる独身男性のイメージ。ヴィジュアル的には、近年のいしわたり淳治みたいな……。

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本書と比べると、土井善晴の『味つけはせんでええんです』は実にラディカルだ。素材を大事にすること、風味を味わうこと、両者には共通点も見られる。しかし、鋭く対立もしている。たとえば、味噌汁についての箇所。土井善晴は味噌汁におけるだしの役割を「一つの要素にすぎない」と喝破し、だし汁は不可欠だ、という人は、おいしさに支配されてしまっている、という指摘をおこなう。「味噌汁は具材と水と味噌でよいのです」。思うに、土井善晴が料理という行為を掘り下げ、特別なものではない生活の一部としての営みへと立ち返っていくのに対して、三浦哲哉は料理のおいしさの原点を風味へと還元していく語っていく。三浦の美味しくなければ、感動しなければ、自炊は続かない、という態度はまさにおいしさという重力に魂を縛られた姿にほかならない、とも言える。しかし、感動が存在する以前に、生活は存在しているのだ。土井が言っていることは、その普通の(美味しくなくても良い/感動がなくても良い)生活の擁護でもあろう。

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*1:奇しくも著者は同じ福島県出身なのだが……もっとも著者は郡山の人なので、自分のように福島市のなかでも郊外のさびれた温泉街の近くで育った人間とは感覚が違いそうではある