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文化的消費活動の日記

伊丹十三 『ぼくの伯父さん』


ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

 

ここ数年、伊丹十三の著作に心酔しきっているわたしであるが、ここにきて彼の「新刊」に出会えるとは思わなかった。2017年は伊丹十三の没後20年。単行本に未収録のエッセイをあつめた本が出版された、というので、飛びつくようにして買い求め、そして、味わうように読んだ。書かれてから相当な時間が経っていても、古びることなく、新鮮で、教わることが多い一冊である。

収録されている70年代のエッセイには教育に関する内容が多く、わたしも人の親になったものだから、考えさせられるものが多かった。とくにスウェーデンの教育方針をとりあげた文章。筆者はかの国の「エリートを作ってはいけない」という教育方針に驚いている。

これを、あなた、たとえば日本の文部省が決めるって想像つく? この差はすごいぜ。社会はみんなで作るんだト。エリートを認めるってことは社会ってものが一部の権力によって動かされるもんだってことを是認することになるんだト。だからエリートは否定されねばならないっていうんだよ。

ポル・ポトを思い出しつつも)グラリとくる文章だと思いませんか。これを『週刊ダイヤモンド』や『AERA』みたいなビジネスゴシップ誌の教育特集を熱心に読んでいる親御さんにも読んでもらいたいものだ、と思う。

また、こんな文章もある。

日本の子供はつくづく可哀そうだと思う。社会に適応すればするほど子供たちは緊張し、萎縮せざるをえないシステムになっている。

これが1975年の文章だ。再び、グラリときてしまう。まさに日本の教育システム・社会ってそうだよな、と。以前、息子には最低限の規律を身につけて、社会に馴染んで欲しい、そのためには体育を身につけてほしいというようなことを書いたけれど「社会に馴染むこと」と「わたしを殺すこと」とがほとんどニアリーイコールで結ばれてしまう社会、とも言えるわけで(極端な表現だけど)。

「社会さま」「世の中さま」が正しく、個人で「それはおかしい」と声をあげても、なにも変わらないから、ある程度従順に生きるしか術はなく、わたし自身そうやって自分と社会に嘘つきながら(折り合いをつけながら)生活している、けれども、改めて1975年の文章によって「はたして、それは正しい姿なんだろうか、そんな社会に「社会とはそういうものだから耐えよ」と投げ込んでいいんだろうか」という気づきと悩みを与えられてしまったような。

60年代のエッセイでは外で食べる、貧乏くさくて、おいしくない、カレー(つまりはニセモノくさい外食。崎陽軒の焼売など、ホンモノの顔をしたニセモノの最高峰と言えよう)などを家でも食べたくなる衝動について綴っており、伊丹十三でもそんな気持ちになるのかと驚きつつ、共感し、また面白く読むのだった。とにかくマストバイの本。